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第84話 三年後の風


 月日は流れ、三年の歳月が瞬く間に過ぎ去った。


 『ガストロノミー・レオン』の厨房では、かつてレオンの背中を追うばかりだったルカが、何十人もの弟子たちに鋭い飛ぶ指示を出していた。王都を中心としたコールドチェーン網は完全に生活インフラとして定着し、いまや王国の食卓で「生の魚介」や「冷たい炭酸」を見かけることは珍しい光景ではなくなっていた。


「シェフ! 港から連絡です! エレナの保冷船が、ついに進水式を終えたそうです!」


 仕込みの手を止めたルカが、厨房の奥の小部屋へ向かって声を張る。


 奥から姿を現したのは、三年前と変わらぬ穏やかな、だがどこか鋭さを増した佇まいのレオンだった。


「そうか。ようやく完成したか」


 レオンは静かに包丁を磨ぎ終えると、鞘に収めた。



     * * *



 グランの港に浮かんでいたのは、かつての黒船すら凌駕する異形の巨船だった。

 最新の真鍮プレートと魔導金属で補強された強固な船体。その内部には、エレナが三年間の試行錯誤の末に完成させた、大規模な風と氷の複合魔導回路、『永久保冷船倉』が組み込まれている。


「見たかしら、レオン!? この『アルティザン号』なら、赤道直下の熱帯を渡ろうが、半年間は食材を一切痛ませずに遠洋航海できるわ!」


 顔を油で汚したエレナが、胸を張って高らかに笑う。隣には、少し貫禄のついたマルニと、相変わらず無骨なバルトが並んでいた。


「で、進水式のお祝いに、ヴォルフの野郎どもがとんでもねえ『手土産』を持ち帰ってきたぞ」


 バルトが目配せすると、港の大型クレーンが、保冷馬車から巨大な塊を吊り上げた。


 ズシンッ!


 石畳を揺らして降ろされたのは、極寒の北の最深海域にしか生息しないと言われる魔獣、『深層氷海竜(レヴィアタン)』の巨大な肉塊だった。


 青白く輝くウロコに覆われたその肉は、氷点下の海に耐えるための強靭な筋繊維と、分厚い天然のコラーゲン層に包まれている。


「グレンの連中、これ一匹狩るために半月も極海に潜ってたらしいぜ。レオンシェフ、こいつを調理して『処女航海のテスト』にしてくれってよ」


 近寄ったレオンが、肉塊にそっと手を触れる。


 冷たく引き締まった肉質。だが、ただ焼いただけではゴムのように硬く、到底人間の歯が立たないことは目に見えていた。


(極寒の深海で鍛え上げられた筋繊維か。普通に加熱すればタンパク質が急速に凝固して硬化する。……だが、酸と酵素で繊維をほぐし、高圧でコラーゲンをゼラチン化させれば……)


 元現代人シェフの血が、久々に激しく騒ぎ出すのを感じた。


「ルカ、熟成醤油と、あの『焔果実』の乾燥スパイスを持ってこい」

「はいっ、シェフ!」

「エレナ、船のテストの前に、俺の特注圧力魔導鍋の火力を最大まで上げてもらうぞ」

「ふふっ、望むところよ!」


 未知なる異世界の超巨大食材と、レオンが培ってきたガストロノミーの技法。


 世界へ大海原へ飛び出すための、最後の宴の仕込みが始まった。

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