第83話 遠い水平線
親睦晩餐会の成功から数日後。
グランの港には、異国へ帰還する巨大鋼鉄船『サン・バルド号』の巨躯が横たわっていた。
出航の準備が進む甲板の上で、レオンはヴァルター提督、そして宮廷料理長カルロスと向き合っていた。
「見事な腕だった、レオンシェフ。……我が国の帝都にも、君のような異能の料理人は存在しない」
ヴァルター提督が心からの敬意を込めて手を差し出す。レオンがその手を固く握り返すと、隣にいたカルロスが気まずそうに、しかし真剣な目で口を開いた。
「……負けを認めるよ。だがな、我がサン・バルド帝国のさらに先……南の大陸には、肉の脂を爆発させる赤い果実や、一口で痺れる山椒、巨大な獣の肉が存在する」
「赤い果実……痺れる山椒か」
カルロスの言葉に、レオンの胸の奥で、久しく忘れていた「料理人としての渇き」が静かにうずいた。
元現代人として知識は持っている。だが、この異世界の地に眠る「本物の未知なる食材」は、まだ自分の手で確かめたことがないのだ。
「レオンシェフ。もし君が海を渡る気があるなら、我が船の客室はいつでも空けておくぞ」
ヴァルター提督の打診に、港で見守っていたルカやリゼたちが一瞬息をのんだ。
「魅力的だが、今はまだ無理だな」
レオンは静かに首を振った。
「王都の店も、コールドチェーンの運用も途中だ。何より、二代目のルカが完全に一人立ちし、この国の食卓が自分の足で歩み出すまでは、ここを離れるわけにはいかない」
「……そうか。だが、その決断も含めて素晴らしい」
ヴァルター提督は満足そうに頷くと、巨大な蒸気機関の汽笛を鳴らし、沖合へと静かに船を進めさせた。
* * *
遠ざかる黒船を港の桟橋から見送るレオンの隣へ、マルニとエレナが並んだ。
「いつか、行くつもりね?」
マルニが微笑を浮かべながら尋ねる。
「……ああ。いつか、この世界の果てにあるすべての味覚を確かめたい。……だが、そのためには準備が必要だ。数ヶ月か、あるいは数年か」
「ふふっ、言ったわね! 決まりよ!」
エレナがつなぎの袖を捲り上げ、胸を叩いた。
「あの程度の鉄船じゃ、遠洋での食材の長期保冷には耐えられないわ! 私が外洋航海に耐えられる、世界初の『超大型魔導保冷船』を設計してあげる! ……もちろん、たっぷり時間はもらうわよ?」
「頼むよ、エレナ」
後ろでは、ルカが静かに拳を握りしめていた。
(シェフが安心して世界へ旅立てるように……俺がこの店と、王国の食を完璧に支えられるようにならなきゃいけない)
水平線の彼方へ消えていく黒船を見つめながら、レオンの瞳には新たな目的がしっかりと刻まれていた。
街角の小さな屋台から始まった物語は、王国全土を巻き込み、そして今、世界という果てしない大海原へと繋がろうとしていた。




