第81話 未知なる黒い雫
王都を出発して三日。
レオンたちは、異様な緊張感に包まれた東の港町グランへと到着した。
普段なら威勢の良い漁師たちの声が飛び交う港は静まり返り、町民たちは遠くの沖合を恐る恐る眺めている。
その視線の先、朝靄の残る海上に鎮座していたのは、山と見紛うばかりの漆黒の巨大鋼鉄船『サン・バルド号』だった。巨大な煙突から黒煙を吐き出し、舷側に立ち並ぶ重厚な砲門が沈黙の威圧を放っている。
「ありえない……! あの巨体を鉄と魔導機関で浮かせているというの……!?」
馬車から乗り出したエレナが、職人としての驚愕と興奮で目を輝かせた。
「威圧感たっぷりだな。だが、怯んでる暇はねえぞ」
バルトが静かに剣の柄に手をやる。港の特設幕舎には、王国衛兵隊と、異国の厳めしい甲冑に身を包んだ警護兵たちが火花を散らすように睨み合っていた。
* * *
幕舎の奥。重苦しい空気のなかで待ち受けていたのは、豪華な軍服を纏ったサン・バルド帝国の全権大使・ヴァルター提督と、自慢げに腕を組む帝国の宮廷料理長・カルロスだった。
「ふむ……王国側の料理責任者というのが、その若い男かね?」
ヴァルター提督が冷ややかな視線でレオンを見下ろす。その隣で、料理長のカルロスが不敵な鼻笑いを漏らした。
「聞いたぞ。王国の宮廷料理人どもは、我が帝国が誇る至高の食材を前にして、腰を抜かして逃げ出したそうだな。……西の大陸の蛮族には、我が国の高尚な食文化など理解できんらしい」
「……煽りに来ましたね、シェフ……」
隣でルカが歯を食いしばり、拳を握りしめる。
カルロスは合図を送ると、従者に命じて二つの重厚な木箱をテーブルの上に叩き付けさせた。
一つ目の箱が開けられると、中から現れたのは、真っ白で硬い小さな粒、『米』。
そして二つ目の箱からは、小さな瓶に入った、とろみのある漆黒の液体、『醤油』が姿を現した。
「これは我が帝国が東洋の島国よりもたらした最高級の調味料と穀物だ。この液体は『ソイ・ソース』。大豆と麦を何年も発酵させたもので、濃厚な塩気と独特のクセを持つ。……どうだ? 匂いを嗅ぐだけで眩暈がするだろう?」
カルロスが得意げに瓶の栓を抜くと、香ばしい大豆の発酵香が幕舎の中に広がった。王国の官僚たちが「うっ……なんと強烈な……」「これを料理に……!?」と顔を顰める。
だが、レオンは静かに一歩前へ出ると、その瓶を手に取り、微かに目を細めた。
(本物の、濃口醤油か……。それも熟成度の高い、極上の逸品だ)
さらに『米』の袋に手を差し入れ、粒の揃い具合と乾燥状態を確かめる。
(短粒種のうるち米。水加減と研ぎ方さえ間違えなければ、完璧に炊き上がる)
「どうした? あまりの異質さに声も出んか?」
勝ち誇るカルロスに対し、レオンは表情ひとつ変えず、静かに瓶の栓を閉めた。
「いいや。素晴らしい食材だ」
「……なに?」
「この米の甘みと、熟成された醤油のコク。……明日の晩餐会、楽しみにしていてくれ。お前たちの提示した食材で、最高の宴を仕立ててみせる」
レオンの迷いのない瞳と落ち着き払った声に、カルロスは一瞬言葉を詰まらせた。
「ふん、強がりを! 明日、己の無知を恥じるがいい!」
* * *
グランの臨時厨房へと戻ったレオンは、すぐさまルカとエレナへ指示を出した。
「ルカ、グランの競り場から『今朝揚がった最高の黒マグロ』の大トロと赤身を用意しろ。それと、ベルグの深山ワサビだ」
「はいっ! マグロとワサビ……まさか、あの醤油を使う気ですか!?」
「ああ。そしてエレナ、お前に頼みたいものがある」
レオンは羊皮紙を取り出すと、素早く手元で図面を描き始めた。
「厚手の鋳鉄で作る、密閉できる重い蓋がついた深い鍋だ。火の熱を均一に伝え、蒸気を逃さない構造にしてほしい」
「鍋……? 直火調理用の魔導加熱陣も組み込めばいいかしら?」
「頼む。これがあれば、あの『米』のポテンシャルを100%引き出せる」
レオンの頭の中には、すでに明日の晩餐会で披露する『至高の献立』が完璧に組み上がっていた。
異国の権威と侮蔑を、極上の食のロジックで粉砕する。
国家の命運を賭けた晩餐会の夜が、静かに近づいていた。




