第75話 巨魚の影
王都を出発してから、丸五日。
湿地帯の泥ぬかるみと険しい峠道を越え、レオンたちの眼下に開けたのは、どこまでも青く広がる東の大海原だった。
東部最大の港町グラン。
潮の匂いが強く立ち込める港には、無数の漁船がひしめき合い、威勢の良い漁師たちの怒号が飛び交っている。
「ここがグランか……。ベルグの山風も良かったが、この磯の匂いも悪くないな」
保冷馬車から飛び降りたレオンは、潮風を胸いっぱいに吸い込んだ。横では、エレナが連日の悪路走破に耐え抜いた『大型保冷馬車試作機』の車輪を磨きながら、心底誇らしげに胸を張っている。
「どうよレオンシェフ! あの酷い悪路でも、私が補強した耐震魔導陣と特殊サスペンションはびくともしなかったでしょ!」
「ああ、お陰で中の氷もまったく減っていない。見事な仕事だ、エレナ」
「えへへ、もっと褒めてくれてもいいのよ? たとえばご褒美に『一生僕の専属でいてくれ』とか」
「はいはい、調子に乗らないの」
馬車の陰からすっと現れたマルニが、エレナの首ねっこを掴んで強引に引き剥がした。
「あたしたちは遊びに来たんじゃないの。ほら、
グランの町長が手ぐすね引いて待ってるわよ」
* * *
港の競り場へ案内されたレオンたちを待っていたのは、立派な髭を蓄えた頑固そうな港町長と、地元の漁師頭たちだった。
だが、彼らの表情は固い。水揚げされたばかりの魚を前に、町長は腕を組みながらレオンを品定めするように見つめた。
「あんたが王都で噂の『冷やす箱』のシェフか。……だがな、我がグランの誇る『黒マグロ』を舐めてもらっちゃ困る」
競り場の氷の上に横たわっていたのは、大人の身長を悠に超える、丸々と太った巨大な黒マグロだった。水揚げされたばかりの魚体は、漆黒の背と銀色の腹が美しく光り輝いている。
「このレベルの巨魚になると、半端な冷やし方じゃ内側から身が腐る。王都までの五日間、鮮度を保つなんて絶対に不可能だ。下手に生で運んで王都の奴らに当たられちゃ、グランの名に傷がつく」
漁師頭が吐き捨てるように言った。彼らにとって、生の魚を遠くへ届けるという試みは、自分たちの命がけの水揚げを冒涜されるようなものだったのだ。
「なるほど。なら、ここで証明しよう」
レオンは静かに微笑むと、腰のケースから愛用の出刃包丁を取り出した。
「町長。このマグロの腹身を、少し削らせてもらってもいいか?」
「……フン、好きにしろ。だが、捌きたての味を知る俺たちを唸らせられると思うなよ」
レオンは迷いのない手つきで包丁を振るい、巨大なマグロの腹から、綺麗なピンク色の脂が乗った「大トロ」のブロックを切り出した。
持参していた木箱から取り出したのは、ベルグで手に入れたあの『深山ワサビ』と『鉱山岩塩』だ。
ワサビを丁寧にすりおろし、厚めに引いた大トロの上に山盛りにして乗せる。
「なっ……!? おいあんた、正気か!? そんなにワサビを乗せたら、魚の味が吹き飛んで辛さで舌がバカになるぞ!」
漁師頭が思わず声を張り上げたが、レオンは意に介さず、岩塩をパラリと振りかけて皿を差し出した。
「まあ、食べてみてください」
半信半疑のまま、町長がその大トロを口へ放り込んだ。
次の瞬間、町長の目が丸く見開かれた。
「な……なんだこれは……っ!?」
口の中に入れた瞬間、マグロの極上の脂がじわりと体温で溶け出し、舌を包み込む。そして驚くべきことに、あれほど山盛りに乗せたワサビの「辛味」が嘘のように消え去り、爽やかな香りと甘みだけが肉の脂と完璧に融合していたのだ。
「辛くない……!? いや、それどころか、マグロの脂のしつこさが完全に消えて、旨味だけが何倍にも跳ね上がっている……!!」
「どれ、俺にも食わせろ! ……んぐっ!? う、うそだろ……っ!? 俺たちがいつも食べてる刺身より、遥かに美味い……!!」
漁師頭も絶句し、膝から崩れ落ちそうになった。
「海の脂と、山の清流が育んだ辛味。……お互いを引き立て合う最高の組み合わせです」
レオンは包丁を拭いながら、静かに町長を見つめた。
「この最高の味覚を、生のまま王都の人間にも味わわせたい。……俺たちに、このマグロを託していただけませんか?」
町長はしばらく無言で自分の手を見つめていたが、やがて顔を上げると、力強い笑みを浮かべてレオンの手を固く握りしめた。
「頼んだぞ、シェフ……! グランの海を、王都へ届けてくれ!!」
* * *
その夜、港の酒場で大宴会が繰り広げられる中、競り場の物陰から保冷馬車を睨みつける怪しい人影があった。
「チッ……町長まであのシェフに籠絡されやがったか」
「あの巨大なマグロを生で王都へ運ばれたら、俺たちが仕切ってる『干物貿易』の価値が暴落する……」
東部街道の闇を牛耳る、旧商業ギルドの幹部たちだった。
「ふん、峠を越えさせなければいいだけの話だ。……『あの男たち』を雇え。港から一歩でも出たら、馬車ごと海へ沈めてやる」
グランの波音に混じり、新たな不穏な企みが暗闇の中に溶けていくのだった。




