第72話 山頂に届く潮風
山々に囲まれた鉱山都市ベルグ。
王都から馬車を飛ばしても丸四日はかかるこの内陸の街へ、見慣れない巨大な保冷馬車が滑り込んできた。
手綱を引くのはバルトが手配した熟練の御者。そしてその横の助手席から軽やかに飛び降りたのは、黒い料理人服に身を包んだレオンだった。すぐさま、護衛の冒険者たちが、周囲を警戒しながら馬車を取り囲む。
「おいおい、なんだあの馬車……? 荷台の隙間から白い冷気が吹き出してるぞ」
広場に集まっていた住民や鉱夫たちが、物珍しそうに集まってくる。この街で「魚」といえば、カチカチに塩を振った干物か、ドロドロに傷んだ保存魚のことだ。生の魚など、山奥で暮らす彼らにとっては童話の中にしか存在しない存在だった。
「ベルグの皆さん! 『ガストロノミー・レオン』のレオンだ。王都から、生の魚を運んできた!」
レオンの合図で保冷箱の重厚な扉が開かれる。
ふわり。
溢れ出した冷気とともに、冷涼な山気の中に一瞬で「新鮮な潮の香り」が広がった。
「な……っ!?」
敷き詰められた氷の上には、うろこが銀色にギラギラと輝く大量のサバとアジ、そしてまだ生きている貝類が並んでいた。
「嘘だろ……!? 王都からここまで四日はかかるんだぞ!? なんで身が張ってて、こんな綺麗な目を流してやがるんだ!!」
騒然となる広場に、駆けつけたベルグの領主と街の鉱山長が姿を現した。
「……本当になまの魚を腐らせずに運んできたというのか? しかし、生の魚などこの山奥では捌き方も調理法も誰も知らんぞ」
「だからこそ、俺が来た」
レオンは静かに微笑むと、持参した包丁ケースを開いた。
「それと領主様、この街の市場で採れる『鉱山特有の岩塩』と、そこの山裾で採れる『深山ワサビ』を少し分けていただけないでしょうか」
「む……? あんな塩気と辛味が強いだけの野草が、魚に合うとでも?」
「最高の相性ですよ」
レオンは手際よくサバの皮を剥ぎ、角の立った美しい刺身に引いていく。そしてベルグ特有の結晶状の岩塩を軽く散らし、すりおろした深山ワサビをちょんと添えた。さらにアジは炭火で表面だけをサッと炙り、香ばしい脂を浮き立たせる。
「どうぞ、召し上がってください」
差し出された皿を、領主が半信半疑で口へ放り込んだ。
噛みしめた瞬間、歯を押し返すようなプリプリとした弾力、口いっぱいに広がる上質な脂の甘み。そして遅れてやってくる、ベルグの岩塩のまろやかな塩気と深山ワサビのツンと抜ける鮮烈な香り。
「――――ッ!?」
領主の目がカッと見開かれ、箸を持った手がワナワナと震え出した。
「な、なんだこの旨味は……! 生臭さなど欠片もない! 我が街の岩塩とワサビが、海の魚の脂と合わさって最高の美味に化けている……!!」
「どれ、わしにも食わせろ! ……むぐっ!? う、うまい……! 炙ったアジの香ばしさと、この力強い岩塩が合いすぎて酒が止まらん! おい、酒を持ってこい!!」
鉱山長が大声を張り上げると、集まっていた住民や鉱夫たちから地鳴りのような大歓声が巻き起こった。
レオンは刺身だけでなく、ベルグで採れる山菜や根菜と魚のアラを合わせた温かい「潮汁」も仕込み、その場で人々に振る舞った。
何十年も塩漬けしか知らなかった山奥の街が、一瞬にして歓喜の宴へと変わっていく。
* * *
宴の傍らで、レオンは地元で手に入れた深山ワサビの葉と、鉱山特有の濃厚な風味を持つ岩塩を大事そうに樽へ詰めていた。
「海の幸を内陸へ届けるだけじゃない。こうして内陸でしか手に入らない素晴らしい食材を持ち帰り、王都の料理をさらに進化させる……これこそがコールドチェーンの本当の価値だ」
レオンの言葉に、同行していたバルトの御者や冒険者たちも深く感銘を受けたようにうなずいた。
だが、この試みが大成功を収めた一方で。
街道の影では、旧来の塩漬け魚や劣悪な保存食の利権で暴利を貪っていた「旧商業ギルド」の地方残党たちが、暗い情念を燃やしていた。
「ええい、あんな冷やす箱で生の魚を配られたら、俺たちの利権が丸つぶれじゃないか……!」
「レオンとかいうシェフと保冷馬車を、王都へ帰すな。街道の関所で難癖をつけるか……ダメなら刺客を使って、馬車ごと崖から叩き落としてしまえ!」
新たな食の革新を阻まんとする暗雲が、帰路の街道に密かに立ち込め始めていた。




