第61話 前夜の静けさ
王都の大通りに面した一角で、何カ月も続いていた改装工事のカンカンという心地よい金槌の音が、ようやく止んだ。
完成した新店舗『ル・シェル』の外観は、従来のどこか重苦しい伝統的な木造店舗とはまるで違っていた。大きなガラス窓からやわらかな光が差し込み、白と深い藍色を基調とした落ち着きのあるモダンな装飾が、道行く人々の目を引く。
看板にはシンプルかつ気品ある筆致で『ル・シェル』と刻まれていた。
「へえ……なかなか上出来じゃない。スラムの裏通りしか知らん荒くれどもが見たら、気後れして入れないレベルね」
店内に一足足を踏み入れたマルニが、出来立ての木の香りが漂うフロアを見渡しながら、感心したように細い煙草の煙をくゆらせた。
「見た目だけじゃねえぞ、地主様。動線も完璧に計算してある。客を待たせずにテイクアウトとカフェ利用をさばける配置だ」
バルトが腕を組み、満足そうに天井を見上げる。
その裏手、仕込み場と繋がる裏口からは、マルニの手配した無地の馬車が横付けされ、木箱が次々と運び込まれていた。中身は、商業ギルドの目を盗んで隣国から極秘裏に届いた極上の小麦粉と乳製品、そして地下実験室で精製されたばかりの大量の『白砂糖』と『カルピス』だ。
「よし、資材の搬入は完了した。傷ひとつない最高の状態だ」
ヴォルフが汗を拭いながら木箱の検品を終えると、ルカとリゼもすかさずエプロンを締め直した。
「じゃあ、俺たちは夜通しで初日の仕込みに入るか。生地の寝かせ具合が命だからな」
「ええ。タルト生地もクリームも、明日の一番客に最高の状態で出せるように準備しましょう!」
* * *
同じ頃。王都の黄金街にある『中央商業ギルド』の本部の一室では、重苦しい沈黙が立ち込めていた。
「……どういうことだ。あいつらへの食材供給は、王都中の商会を使って完全に絶ったはずではなかったのか!?」
豪華な革張りの椅子に深く腰掛けた商業ギルドの幹部が、机を激しく叩きつけた。目の前に控える報告係の男が、額の汗を拭いながら声を震わせる。
「は、はい……表の市場はすべて押さえております! しかし、どうやらスラムの地主……マルニの女狐が裏で動き、隣国の独立系ルートから直接引き込んだ模様で……。すでに新店舗には十分な資材が運び込まれております」
「チッ、あのスラムの泥棒猫め……! だが、いくら材料を揃えたところで、まともな菓子が作れるはずもない。明日、初日で無様な醜態を晒したら、すぐに営業停止へ追い込んでやる!」
幹部は不快そうに吐き捨てたが、その瞳の奥には拭いきれない焦りの色が滲み出ていた。
* * *
夜が深まり、王都が静まり返る頃。『ル・シェル』の厨房では、焼きたてのタルト生地が放つ芳醇な香りと、カルピス特有の甘酸っぱい爽やかな香りが満ち満ちていた。
ズラリと並べられた『白銀タルト』の壮観な出来栄えを前に、仲間たちが安堵混じりの溜息をつく。
「……完璧だな。誰一人として手を抜かなかった」
厨房の真ん中に立つレオンが、白布で手を拭いながら静かに言葉を紡ぐ。バルト、ヴォルフ、ルカ、リゼ、そしてマルニまでもが、その一言に笑みを返した。
「さあ、いよいよ明日だ。商業ギルドの古狸どもにも、王都の連中にも、本当の『美味い』ってヤツを叩き込んでやろうぜ」
バルトが豪快に肩を叩き、全員が力強くうなずいた。
静かな夜の闇の向こうで、新しい時代の幕開けを告げる東の空が、ゆっくりと白み始めていた。




