第57話 商戦
白砂糖の精製とカルピスの試作に成功してから、数週間が過ぎていた。
スラムの地下実験室は、連日、甘酸っぱい発酵の匂いと、濃縮されたシロップがかすかに焦げる芳香で満たされていた。
「ねえ、レオン。ちょっと手を止めなさいよ」
ガチャリと重い木戸が開き、階段を下りてきたのはマルニだった。
「何の用だ、地主様。アポなしの不法侵入じゃないなら歓迎するが」
「当たり前でしょ! ちゃんと入口でバルトに許可を取ってから入ってきてるわよ」
マルニは不機嫌そうに鼻を鳴らすと、脇に抱えていた分厚い羊皮紙の束を、ドンと調理台の隅に投げ置いた。
「これさ、ただの珍しい新商品とかそんなレベルの代物じゃないわよね。王都の表通りや貴族街でこんなの売り出したら、既存の『蜜』の利権をがっちり握ってる連中が、黙って見過ごすわけないじゃない。……ねえ、本当は隠れて一体何を企んでるわけ?」
スラムの裏も表も見て金を動かしてきた彼女の直感は、この白い結晶と酸っぱい飲み物が持つ破壊力を、正確に見抜いていた。
「ああ。だからこそ、表向きの綺麗な流通ルートと、ガッツリ動かせる資金力が必要になるんだ。地主様、うちに出資して、特許の権利を半分握る気はあるか?」
「ふん、いい度胸じゃない!」
マルニは勝ち誇ったように、ふっと不敵な笑みを浮かべた。
「あたしが資金と一等地の土地を全面的に提供する代わりに、新ブランドの全権利の半分と、店舗展開の主導権は全部あたしが握る。文句ないわよね?」
予約半年待ちの高級店『ガストロノミー・レオン』とは別に、マルニの資金力・土地勘と、レオンの白砂糖・発酵技術を掛け合わせた世界初のスイーツ&カフェブランド『ル・シェル』の計画が、こうして水面下で本格的に動き出したのだった。
* * *
だが、新しい風が激しく吹けば、必ず古い水たまりの泥が掻き回される。
王都の中心にそびえる商業ギルドの本部。かつてレオンたちの前に幾度となく立ち塞がり、その都度返り討ちにあってきた古参の商人や幹部たちが、ギルド長の屋敷の奥まった部屋に集まっていた。
「……おかしな噂が流れているな。あのスラムの小僧どもが、高価な蜜を一切使わずに、まったく新しい『純白の甘み』と『奇妙な白い酸味の飲み物』を流行らせようとしているらしい」
「ふん、蜜の独占利権を脅かすつもりか。過去の食典の勝負で少し調子に乗っているようだが……商売のルールと恐怖というものを、そろそろ叩き込んでやらねばならんようだな」
冷ややかな笑みを浮かべる幹部たちの陰で、かつて失脚したモルガンの残党や、古いしがらみにしがみつく末端の商人たちが、レオンたちの新しいカフェ計画を徹底的に潰すための嫌がらせを密かに計画し始めていた。
材料の買い占め、悪質な噂の流布、そしてスラムへの不当な圧力。旧来の利権にしがみつく者たちが、静かに牙を剥き始めていたのだ。
王国全土の流通と食の未来を巻き込む、新たなビジネスバトルの火蓋が、いま音もなく切って落とされようとしていた。




