第56話 実験室
あの全土食典での圧勝から、七年という長い年月が流れていた。
レオンたちが提示した「下処理と素材の理」は、波紋のように王国全土、果ては隣国へと広がり、かつて蜜の甘さだけで強引に味をごまかしていた料理人たちの意識を根底から変えていた。世界全体の食のレベルは、この七年で飛躍的に引き上げられていたのだ。
スラムの街角もまた、激変を遂げていた。
「いらっしゃい! 3号店の串焼き、焼き上がりだぞ! 並ぶ奴は列を乱すなよ!」
威勢の良い声を張り上げているのは、すっかり仕立ての良い革ベストが板についたバルトだ。
かつての小さな手押し車は、今やスラム内に『1号店』から『5号店』までの屋台チェーンへと拡大していた。バルトは若手を何人も雇い入れ、食材の搬入から売上管理までを仕切る優秀な総マネージャーへと変貌を遂げていた。
そして、かつて薬種屋だった石造りの店舗『ガストロノミー・レオン』。
今や王族すら予約に半年待つというその完全予約制店舗の厨房を守っていたのは、レオンではない。
「ヴォルフ、2番卓のスープの保温温度、少し高いぞ。82度だ」
「すみません、ルカさん! すぐに調整します!」
「リゼ、ハーブの刻み、相変わらず見事なもんだな」
老練なルカ、大きく成長したリゼ、そして元宮廷のヴォルフの三人だった。彼らはレオンの思考と技術を完璧に受け継ぎ、店を任される一流の職人たちへと成長していた。
* * *
では、当のレオンはどこにいるのかといえば。
店舗のさらに奥、地下に作られた人目につかない密室のような調理実験室にいた。
あれから少年はすっきりと背が伸び、17歳を迎えた青年となっていた。その瞳には、かつて以上の鋭い知性と職人の熱が宿っている。
「……ふむ。サトウキビに似た『甜菜』の根茎の搾り汁か。灰汁を石灰で沈殿させ、布で何度も濾す……。だが、結晶化させるにはまだ水分と不純物が多いな」
レオンの手元にあったのは、細かく挽かれた白い結晶と、ドロリとした褐色の液体。
そう、この世界には存在しない『白砂糖』の精製実験だ。 蜜や果汁の重たい甘みではなく、素材の味を極限まで引き立てる無味無臭の純粋な「純甘味」。これを完成させれば、世界の調理理論はさらに一段上の領域へ到達する。
さらに、その横の素焼きの壺には、脱脂乳に独自の野生乳酸菌と酵母を仕込み、何段階も発酵させた白い液体『どうしても飲みたいカルピス』の試作品が仕込まれていた。
「甘みと酸味の乳化……そして発酵の清涼感。脱脂乳の酸腐ギリギリのラインで見極めるか」
レオンが真剣な面持ちで壺の蓋を開け、甘酸っぱい爽やかな芳香を確かめていた、まさにその時だ。
「ちょっと、レオン。また地下に引きこもって怪しい実験してるわけ?」
* * *
階段をカツカツと鳴らして降りてきたのは、ダボついた高級な外套を羽織った小柄な少女マルニだった。
すっかりお姉さんになった彼女は、スラム全体の土地を握る『地主』としての貫禄をさらに増していた。相変わらず生意気そうに眉をひそめているが、その手にはバルトから受け取った屋台1〜5号店と『ガストロノミー・レオン』の今月のショバ代・売上報告書がしっかりと握られている。
「勝手に入るなと言ったはずだぞ、マルニ」
レオンが白布で手を拭いながら振り返ると、マルニは組んだ腕の横でふんっと小さく鼻を鳴らした。
「失礼ね! うちの筆頭借家人が変な爆発事故でも起こして、あたしの『大切な不動産価値』を下げてないか見に来てあげたのよ。今月の店舗の不労所得、ちゃんと計算通り受け取ったからその確認だし!」
口では生意気を言いながらも、マルニの視線は好奇心に勝てず、テーブルの上の『白い結晶』と素焼きの壺へと吸い寄せられていた。
「ねえ……これ何よ。また何か新しい仕込み?」
「世界を変える『純甘味(白砂糖)』と『発酵飲料』だ」
「じゅんかんみ……? カルピス……?」
聞き慣れない言葉にマルニが首をかしげる。レオンは小さな匙で掬い上げた白砂糖の微粉末と、水で割ったカルピスの試作品を差し出した。
「味見してみるか、地主さん」
「ふん、どうせまた変な味なんでしょ……」
マルニは不機嫌そうに澄ましてみせたものの、かつて串焼き一口で落とした記憶が頭をよぎったのか、おそるおそる舌を伸ばして白砂糖を舐め、続いて冷たいカルピスを小さく一口含んだ。
そして。
「うま!?!?!」
マルニの大きな瞳が、弾かれたように丸くなった。
「な……なにこれ……っ!? 蜜みたいな重いクドさが一切ないのに、純粋な甘みだけが口いっぱいに広がる……! それにこの白い飲み物……酸っぱくて甘くて、信じられないくらいさわやかじゃない……っ!!」
顔を真っ赤にしながら目を輝かせるマルニを見て、レオンはふっと口元を緩めた。
「これが完成すれば、スラムの不動産価値どころか、世界中の食の流通がひっくり返るぞ」
「うう……っ! 相変わらず恐ろしいガキ……! いいわ、完成したら教えなさい! いいわね!?」
契約書を突きつける勢いで迫るマルニの姿に、地下実験室にはどこか懐かしく、賑やかな笑い声が響くのだった。




