第55話 栄光ののち
全土食典での衝撃的な全勝優勝から、数日が過ぎた。
大聖堂前の広場を揺らした数万の観客による大歓声。その熱狂の余韻は冷めるどころか、王都の路地裏の酒場から城門の向こうの貴族サロンまで、まるで野火のように一気に燃え広がり続けていた。
「聞いたか? スラムの街角にある『ガストロノミー・レオン』が、あの帝国の料理団を完膚なきまでに叩きのめしたそうだぞ!」
「王子殿下に涙を流させたらしい……」
スラムの入口に位置する『ガストロノミー・レオン』の店舗前には、連日、噂を聞きつけた大貴族の使者や、遠方の都市から車回しを連れてやってきた富豪たちの馬車が、細い路地を埋め尽くすように連なっていた。
だが、店内に漂う空気は、食典の火蓋が切られる前となんら変わっていなかった。
* * *
「はいはい、予約なら一ヶ月先までびっちり詰まってる! いくら金貨を積まれたって、今日の分の席は一席も空いちゃいねえよ!」
バルトが店頭で太い腕を組み、詰めかける身なりの良い使いの者たちを豪快に追い返していく。その強面には苦笑いが浮かびつつも、どこか誇らしげな色が隠しきれていなかった。
厨房の奥では、ルカがゴツゴツとした手で包丁を研ぎ石に当て、シャリ、シャリ、と一定の湿った音を響かせていた。
「ふぅ……全土で一番になろうが何だろうが、包丁の刃先が勝手に切れ味を増してくれるわけじゃねえからな。相変わらず手が休まらねえ」
「でもルカさん、さっきから口元がずっと緩んでますよ」
リゼが小さく微笑みながら、瑞々しい野草の束を手際よく仕分けていく。葉脈を傷つけない正確な指先には、修羅場をいくつも潜り抜けてきた職人としての揺るぎない自信が宿っていた。
ヴォルフは鍋の前にへばりつき、浮き上がってくる微細なアクを逃さずすくい取っている。
「レオンシェフ、ブロードの引き直しが完了しました。温度は85度でキープ、にごりは一切ありません」
「よし。そのまま保温しておけ」
レオンは手拭いで両手を拭うと、調理台の片隅に無造作に置かれた木箱へと視線を向けた。
王室から授与された、全土食典優勝の証である黄金の紋章盾。そして重厚な革袋に溢れんばかりに詰め込まれた、輝く金貨の山。
スラムの住民が一生かかっても手にできないほどの膨大な富と栄誉がそこにあったが、レオンの心を動かすものは何一つなかった。
* * *
仕込みの合間、厨房の裏口の布がそっと持ち上がり、ひとりの男が静かに姿を現した。
身なりを整えた上質な旅装束を纏う男、かつて王室の権威を背負ってレオンたちの前に立ち塞がった、筆頭料理長ジャン=ポールだった。
「……何の用だ。負け惜しみなら受け付けねえぞ」
バルトが即座に身構えたが、レオンは軽く手を挙げて制した。
ジャン=ポールは静かな歩調で近づくと、かつての高慢さを完全に削ぎ落とした真摯な眼差しで、レオンの目の前へ一枚の羊皮紙を差し出した。
「……王室料理人組合からの、正式な推薦状だ」
その声には、敗北を味わった料理人としての静かな重みが宿っていた。
「君のその手腕は、もはやスラムの路地裏や王都の一店舗に収まっていいものではない。王宮宮廷料理長への即時就任、ならびに王国全域の食材流通を統括する権限……王室は、君という才能を本気で求めている」
厨房の空気が、一瞬でピンと張り詰めた。
リゼもヴォルフも、息を呑んでレオンの横顔を見つめる。王宮宮廷料理長。料理人としてこれ以上の名声も権力も、この王国には存在しない。
だが、レオンは差し出された紙面に目をやることもなく、静かに首を横に振った。
「……断る」
「……なに?」
ジャン=ポールが思わず目を見開いた。
「俺が包丁を研ぐのは、冷たい城の奥で鎮座する権力者におもねるためじゃない。路地裏で腹を空かせた奴から、遠くから噂を聞いて暖簾をくぐってきた客まで……目の前に座った奴に、最高の『一皿』を食わせるためだ」
レオンの言葉には、微塵の揺らぎもなかった。
「王宮の仕来りやギルドの利権なんかに縛られたら、俺の料理は死ぬ。……俺たちの厨房は、ここだ」
* * *
ジャン=ポールはしばらく息を呑んで立ち尽くしていたが、やがて呆れたように、そしてどこか憑き物が落ちたような爽やかな笑みを浮かべた。
「……どこまでも手厳しいシェフだな。……だが、だからこそ私は君に負けたのだろうね」
ジャン=ポールは静かに一礼すると、一度も振り返ることなく去っていった。
「へっ! 言ってくれるぜ、シェフ!」
バルトが豪快に笑いながら、レオンの肩をバシッと叩く。
「おうよ。この煙くさいスラムの厨房の方が俺たちにはお似合いだ」
ルカも不器用な笑みを浮かべ、再び研ぎ石に包丁を走らせ始めた。
夕闇が迫るスラムの街角に、野草の清涼な香りと、香ばしく焦がした澄ましバター、そして深く澄んだ出汁の香りがふわりと立ち上っていく。
全土食典を制し、王国の頂点に立ちながらも、彼らの物語は変わらずこの小さな街角の厨房から続いていくのだった。




