第52話 刺客の影
二回戦の熱狂が冷めやらぬまま、会場の熱気はそのまま『ガストロノミー・レオン』の噂で埋め尽くされていた。
「聞いたか? 王室お抱えのジャン=ポール筆頭料理長が、またスラムの少年に敗れたらしいぞ」
「蜜も果実酒も使わずに勝ったんだと……」
観客席のあちこちで囁かれる声は、もはや嘲笑ではなく驚嘆と畏怖へと変わっていた。
天幕の控室へ戻ったレオンたちは、汗を拭いながら次の準備に取りかかっていた。
「へっ、ざまあみろだ! あの鼻持ちならない宮廷料理人の青ざめた面、最高だったぜ!」
バルトが快哉を叫びながら、使った大鍋を豪快に洗う。ルカも研ぎ石に包丁を当て、シャリシャリと一定の音を響かせながら口元を緩めた。
「だがな、シェフ。二回負けたあいつらが、このまま大人しく引き下がるとは思えねえ」
「ああ、分かってる」
レオンは手拭いで手を拭い、調理台の上に置かれた次の羊皮紙を見つめた。
次はいよいよ準決勝。残る店舗は、全土から勝ち上がってきたわずか四組だ。
「……シェフ、外に誰か来ています」
リゼが静かに天幕の入口を指さした。
開け放たれた布の隙間から立っていたのは、上質な漆黒の衣装に身を包んだ小柄な男だった。胸元には、王都中央商業ギルドの最高幹部を示す金の刺繍が光っている。
* * *
「……素晴らしい手際でしたよ、レオンシェフ」
男は冷ややかな笑みを浮かべ、薄い唇を滑らかに動かした。
「私は商業ギルド副組合長のモルガン。本日は、貴方にひとつ『ご相談』があって参りました」
バルトとルカが即座に身を乗り出し、警戒の眼差しを向ける。
「商業ギルドの幹部が何の用だ。俺たちはギルドの買い占めにも屈しなかったし、利権に絡むつもりもねえぞ」
「おやおや、そう荒立ちなさるな」
モルガンはバルトの威圧を軽く受け流すと、懐から一枚の羊皮紙を取り出し、調理台の上にそっと滑らせた。
「次の準決勝……そして決勝。貴方が勝ち進むことは目に見えている。だがね、レオンシェフ。王室や大貴族たちが求めているのは、単なる『美味しい料理』だけではないのですよ」
レオンは流すような目で羊皮紙に目を落とした。そこに書かれていたのは、王都の一等地に建てられる巨大な店舗の権利書と、破格の金貨の目録だった。
「条件は簡単です。次の準決勝で、商業ギルドが推薦する海外の輸入蜜と濃縮果汁を『隠し味』として使い、ギルドの宣伝を行っていただきたい。それだけで、貴方はスラムの街角から一躍、王国最高の富と名声を手に入れることになる」
天幕の中に、重苦しい静寂が落ちた。
ヴォルフが拳を強く握りしめ、悔しそうに歯を食いしばる。かつての自分なら、喉から手が出るほど欲しがったであろう条件だ。
だが、レオンは一瞬たりとも目を留めることなく、羊皮紙をモルガンの胸元へと押し返した。
「断る」
「……何ですと?」
モルガンの笑みがピクリと引きつる。
「俺たちが作っているのは、料理だ。粗悪な臭みを隠すための蜜や果汁を売りつけるために、包丁を握ってるわけじゃない」
「……ふむ。若さゆえの青臭い美学、といったところですか」
モルガンは羊皮紙を回収すると、氷のように冷たい眼差しでレオンを見下ろした。
「ですがね、シェフ。食典の裏で動いているのは、料理人たちのプライドだけではないのですよ。……怪我をされないよう、くれぐれもお気をつけなさい」
不吉な捨て台詞を残し、男は影のように天幕を去っていった。
* * *
「ちっ……脅しかよ!」
バルトが吐き捨てるように床を踏みつける。
「食材の横取りや、仕込みの邪魔をしてくるかもしれませんね」
リゼが懸念を口にすると、ルカが無骨な腕を組み、力強く鼻を鳴らした。
「へっ、スラムの裏路地で生きてきた俺たちだ。汚い真似をしてくるなら、返り討ちにしてやる
までよ」
レオンは静かに包丁ケースに触れ、仲間たちの顔を見渡した。
「食材の管理と火元の警戒は徹底する。……だが、やることは変わらない」
目が、職人としての静かな炎を宿す。
「準決勝のテーマが何であれ、俺たちは俺たちの料理をする」
商業ギルドの暗雲が忍び寄る中、『ガストロノミー・レオン』の挑戦は、いよいよ大会の頂点へと近づいていた。




