第51話 深緑
全土食典二回戦の朝。
大聖堂前の広場に組まれた特設調理場には、昨日をはるかに上回る群衆が押し寄せていた。初戦でスラムの『ガストロノミー・レオン』が見せた、あまりに鮮烈な味覚の衝撃。その噂は一夜にして王都の路地裏から城門の中まで駆け巡っていた。
「二回戦のテーマは『魚介と野菜』! 制限時間は二刻!」
進行役の重々しいドラの音が腹に響いた瞬間、広場のあちこちから一斉に火が起こされた。
最前線に陣取る王室筆頭料理長ジャン=ポールの陣営では、早くも厚手の銅鍋がいくつも並べられていた。そこに惜しげもなく注ぎ込まれるのは、ドロリとした濃縮果汁と強い果実酒、そして黄金色の特製蜜だ。
川魚や魔魚が持つ独特の皮臭さや血生臭さ。それを、力強い蜜の粘り気と強烈な果実の香気で強引に覆い隠す、それが、何世紀にもわたって王宮の舌を満足させてきた彼らの『正義』だった。
対する『ガストロノミー・レオン』の台に載っていたのは、清流で獲れたばかりの『魔斑鮎』と、山肌で摘んできたスイバ、そして野生クレソンの山だった。
「ルカ、血抜きから頼む」
「おうよ、任せとけ!」
ルカのゴツゴツとした分厚い手が、研ぎ直したばかりの細身の包丁を握る。
刃先が鮎のエラ裏に入り、背骨に沿って滑らかにすべった。中骨の隙間にこびりつく微細な血合いを、包丁の背と指先で削ぎ落とし、冷水ですっと洗い流す。水気に余計な時間をかけないから、魚身が水っぽくふやけることもない。
血合いを完全に抜かれた鮎からは、あの独特の泥臭さがきれいに消え、清流の澄んだ匂いだけが残っていた。
「リゼ、ハーブだ。繊維を潰すな」
「はい! 葉脈に沿って切ります!」
リゼの叩くまな板から、トン、トンと一定の軽い音が刻まれる。みずみずしい緑の汁を無駄に溢れさせることなく、0.1ミリ単位で切られたスイバが整然と並べられていった。
ヴォルフは鍋の前にへばりつき、魚の骨から取る出汁の温度をじっと見つめている。
「シェフ、80度をキープしてます。アクも泡も全部すくいました」
「よし。濁りがないのを確認したら、澄ましバターを少しずつ落として混ぜろ。乳化させるんだ」
「了解です!」
ヴォルフの顔には、かつて王都で鼻につく高慢さを撒き散らしていた面影はどこにもない。汗をぬぐう暇もなく、ひたすら鍋と向き合っていた。
丁寧に仕込まれた澄んだ出汁に、澄ましバターのコクとスイバの果汁が合わさり、深緑色の滑らかなソースが静かに仕上がっていく。
* * *
終了を告げるドラが打ち鳴らされた。
ジャン=ポールが差し出したのは、紫色のドロリとしたソースに塗られた『高級魔魚スターフィッシュの果実酒煮込み』。濃厚な甘い香りが審査卓の周りに立ち込め、貴族たちが満足そうに頷き合っている。
一方、レオンが出したのは、浅い深皿に盛られた『魔斑鮎の低温焼き・野草スイバのエマルジョン仕立て』。
皮目はパリッと芳しく焼き上がっており、下には滑らかな緑のソース。そこへ黄金色に澄んだ温かい出汁が注がれていた。
「ふん……蜜も果実酒も使わない素っ気ない魚料理で、審査員を満足させられるわけが……」
ジャン=ポールが冷笑を浮かべた、まさにその時だ。
審査員席の中央に座る外交使節団長が、スプーンで魚身とスープを掬い、一口口へと含んだ。
「――っ……!?!?」
団長の目が、弾かれたように大きく見開かれた。
「な……なんだこの身の柔らかさは……っ! 川魚の泥臭さがどこにもない! 噛むたびに、魚本来の上質な脂の旨味がじわじわと広がってくる……っ!」
「これだけではないぞ! この深緑のソースだ! 野草の鋭い酸味が魚出汁と溶け合って、脂の重さを信じられないほどさわやかな旨味に変えている……っ!」
他の審査員たちも我先にと皿へ押し寄せ、スプーンを動かす手を止めなくなった。
「美味い……美味すぎる! 蜜や果汁で塗たくった料理とは、素材の力強さがまるで違う……っ!」
* * *
「二回戦……勝者、『ガストロノミー・レオン』!!」
司会の叫び声と同時に、会場全体が地鳴りのような大歓声に包まれた。
ジャン=ポールの顔からは完全に血の気が引き、信じられない様子でガタガタと震えている。
「な……なぜだ……っ! 特製蜜も果実酒も使わずに、どうしてこれほどの旨味が出る……っ!?」
立ち尽くすジャン=ポールに対し、レオンは静かに包丁をケースへ収めながら吐き捨てた。
「手間と、素材の組み合わせだ。高価な蜜でごまかさなくても、丁寧に扱えば素材はちゃんと応えてくれる」
それだけ言い残すと、レオンたちは静かにステージを後にした。
スラムの小さな厨房で磨き抜かれた本物の職人技が、王室お抱え料理人たちの固い鼻柱を、再び力強く打ち砕いた瞬間だった。




