第46話 予約
ヴォルフが下処理の基礎を叩き込まれ始めてから二週間。
スラムの裏路地に静かに佇む、石造りの予約制専用店舗。その重厚な木扉の前に、一両の豪奢な馬車が静かに停車した。
降り立ってきたのは、深緑の意匠が施された上質な上着を纏う、初老の紳士だった。
「……ここが、ジュリアン伯爵が絶賛していた料理人の店か」
男の名は、クラウス男爵。王都で広大な領地を治める有力貴族であり、重度の胃弱と食欲不振に長年悩まされていることで有名な人物だった。
店内へ案内したリゼが、深々と一礼して席へと通す。
「いらっしゃいませ、クラウス様。本日は当店の完全予約制コースをご用意しております」
静かな店内に通されたクラウスは、卓上に置かれた白木のカトラリーと、整えられた清潔な空間に少し驚いた表情を見せた。スラム街の喧騒とは完全に遮断された、息を呑むほど洗練された空気が漂っている。
厨房の奥では、レオンが砥石で静かに包丁を研ぎ、その脇でヴォルフが緊張した面持ちで仕込みの温度管理をしていた。
「ヴォルフ。乳化の温度を落とすなよ」
「は、はい! シェフ!」
引き締まった顔つきのヴォルフが、力強く頷く。レオンは包丁を手拭いで拭うと、静かに盛り付けへと向かった。
* * *
一皿目として出されたのは、冷製のアミューズ(前菜)だった。
透き通る結晶の皿に盛られていたのは、薄くスライスされた『旬の根菜のカルパッチョ・スイバとみかん果汁のジュレ添え』。
「これは……美しいな。肉でも魚でもないのか?」
クラウス男爵がフォークを伸ばし、一口口へと運んだ。
シャキリとした歯ごたえとともに、スイバの鋭い酸味と、ほのかな果実の甘みが弾ける。皮下の固い筋を綺麗に削ぎ落とした根菜は驚くほど滑らかで、噛むたびに唾液がじんわりと溢れ出してくる。
「おお……っ! 口の中が洗われるようだ……っ! 重たさが一切なく、胃がすっと開き始めるのが分かる……!」
クラウス男爵は思わず目を見張り、一気に平らげた。
続いて運ばれてきたのは、温かい二皿目――『手打ち小麦生地のスープ・手巻き手延べ仕立て』。 深皿の中で黄金色に透き通るのは、鴨ガラと炒めたヨモギを極限まで濾した芳醇なブロード(出汁)。そこに、卵を使わず水と上質な粉だけで手繰り寄せたモチモチとした太生地が泳いでいる。
「スープの中にパスタ……? このような食べ方は見たことがないぞ」
男爵がスプーンとフォークで生地をすくい、スープとともに口に含んだ。
「――っ!?」
噛みしめた瞬間、小麦本来の香ばしさとモチモチとした食感が弾け、同時に出汁の濃密な旨味が喉へと流れ込んでいく。
「美味い……美味すぎるっ! 重たいソースで和えたパスタとはまるで違う! 出汁と一緒にすするからこそ、噛むほどに腹の底から温かい力が満ちてくる……!」
クラウス男爵は夢中でスプーンを動かし、最後の一滴までスープを飲み干した。
* * *
メインとして出されたのは、ルカが解体した極上部位を使った『熟成オーク肉の藁焼き・焦がしバターと野生クレソンのエマルジョン』。
藁の香ばしい燻煙を纏わせた表面はカリッと香ばしく、中はしっとりとしたレア状態。バターの旨味、クレソンの苦味をホイップ状に泡立てて絡めた創作ソースだ。
ナイフを入れると、力を入れずともスッと刃が通る。
「……何という香ばしさだ。藁の煙が肉の脂をこんなにも昇華させるのか」
一口食べた男爵は、感極まったように目を閉じ、咀嚼を噛みしめた。
「重さなど欠片もない……。ただ香ばしさと、肉のピュアな旨味が押し寄せてくる……っ! 私は……私は今、生きている喜びを食べている……!」
長年、重たい宮廷料理に苦しんできた大貴族が、綺麗に皿を拭い去り、深く息を吐いた。
食事が終わり、満足感に包まれるクラウスの前へ、レオンが静かに姿を現した。
「お気に召していただけましたか」
「最高だったよ、シェフ……! こんなに腹の底から満たされ、同時に身体が軽くなったのは人生で初めてだ……!」
クラウス男爵は立ち上がり、感無量といった様子で頷いた。
「ところで、シェフ。ひとつ訊ね忘れていた」
「なんでしょう」
「この素晴らしき店……我が知人たちにもぜひ紹介したいのだが、この店の『名前』は何というのだ? 看板が出ていなかったように思うのだが」
「あ」
クラウスの問いに、レオンの動きがふっと止まった。
奥から料理を下げにきたリゼと、カウンターの端で仕込みをしていたバルト、ルカ、そしてヴォルフが一斉に顔を見合わせる。
「……おいシェフ、そういえば俺たち、この店舗の屋号を決めてなかったな?」
バルトが頭をかきながら苦笑いを浮かべると、リゼもくすりと胸元を揺らして笑った。
「屋台も一号店、二号店って呼んでましたからね。店舗の名前なんて、考える暇もありませんでした」
「ハハ……! 仕込みと料理のことで頭がいっぱいだったからな」
ルカもヴォルフも呆れ混じりに声を漏らし、店内にはふっと温かい笑いが広がった。
クラウス男爵も思わず目を丸くし、それから可笑しそうに口元を緩めた。
「ふふ、なるほど。料理のことしか頭にない、生粋の職人集団というわけか。……で、シェフ。今、この場で決めるなら何と呼べばいい?」
レオンは仲間たちの顔を見渡し、それから腰の包丁ケースへと静かに手を添えた。
少しだけ口元を緩め、まっすぐな目で男爵を見つめる。
「『ガストロノミー・レオン』。そう呼んでください」




