第45話 再起
路地裏の泥に膝をつき、頭を垂れるヴォルフ。
その姿を、バルトとルカ、そしてリゼが複雑な表情で見つめていた。王都の豪華な厨房で威張り散らしていた男の変わり果てた落ちぶれ様だ。
「おいおい……マジかよシェフ。こいつ、王都でお前に散々嫌味を言ってた奴だろ? スラムの厨房に入れるなんて危なくないか?」
バルトが警戒感を露わにして囁く。
だが、レオンはヴォルフの握りしめた包丁袋と、ガタガタと震える指先に静かに視線を落とした。
「……立ち上がれ、ヴォルフ」
「シェフ……っ」
「うちの厨房に、過去の肩書やプライドを持ち込む場所はない。教えるのは味付けや華やかなソースだけじゃない。血抜き、筋引き、道具の手入れ、地味で泥臭い下処理の基礎からだ。それに耐えられるか?」
ヴォルフは泥を拭うことも忘れ、弾かれたように顔を上げた。
「耐えます! どんな雑用でも、皿洗いでもやります! どうか……僕にやり直す機会を……っ!」
「……言ったな。……リゼ、裏の洗い場と下処理場にこの男を案内しろ。今日から下働きだ」
「わかりました、シェフ」
リゼが真剣な面持ちで頷き、ヴォルフを店舗の裏手へと促した。
* * *
翌日から、ヴォルフの過酷な下働きが始まった。
朝一番の井戸水汲みから始まり、屋台と店舗で使う膨大な数の器洗い。手は氷のように冷たい水で赤く腫れ上がり、王都で肥え太っていた身体は悲鳴を上げた。
だが、ヴォルフは愚痴一つこぼさず、必死に食らいついた。
午後になり、レオンが調理場の台にどっさりと置いたのは、野山で摘んできた大量の『スイバ』と『ヨモギ』の山だった。
「ヴォルフ。このハーブの根と茎を切り分け、傷んだ葉を一枚ずつ取り除け。水洗いの後は、布巾で一滴の水分も残さず拭き取るんだ」
「は、はい!」
ヴォルフは震える手で包丁を握り、必死に作業を始めた。だが、慣れない野草の手入れに焦り、葉を粗雑に千切ってしまう。
「ストップだ」
レオンの冷たい声が響く。
「葉脈を潰している。そんな雑な扱い方をすれば、ハーブの清涼感が死んでエグみが残る。……素材そのものの声を聞こうとしていない」
「う……っ」
ヴォルフは顔を赤くして縮こまった。
そこへ、解体作業を終えたルカが無骨に歩み寄ってきた。
「おい、元総料理長さんよ。肉もハーブも生き物だ。雑に扱えば、その分だけ不味い料理になって跳ね返ってくる。……俺たちのシェフは、そこを一ミリも妥協しねえんだよ」
ルカの手元を見れば、巨大な魔獣の肉から吸い付くように余分な脂肪と筋だけが切り出されていく。包丁の動きには迷いがなく、素材への深い敬意が溢れていた。
「……申し訳ありませんでした。もう一度……最初からやり直させてください」
ヴォルフは深々と頭を下げ、一枚の葉、一本の根と丁寧に向き合い始めた。
* **
数日後。
ヴォルフが丁寧に下処理を施したスイバとヨモギを使い、レオンが仕込んだ『野草と塩豚の澄ましスープ』が、まかないとして厨房の全員に配られた。
ヴォルフは恐る恐る自分の木碗を持ち上げ、スープを一口口に含んだ。
「――っ!?」
その瞬間、ヴォルフの目からボロボロと大粒の涙が溢れ出した。
青臭さなどどこにもない。自分が一枚ずつ丁寧に汚れを拭き取り、水気を切ったスイバの酸味が、澄んだ豚出汁の旨味を極限まで引き立てている。体にじわりと染み渡る、優しくも力強い本物の味だ。
「僕が……僕が下処理したハーブが……こんなに……こんなに美味いスープになるなんて……っ!」
「お前が雑味を綺麗に取り除いたからだ」
レオンは静かにスープを口にしながら言った。
「料理の味の八割は、火にかける前の『下処理』で決まる。高価な甘みや調味料で上塗りしなくても、丁寧に手間をかければ素材は応えてくれるんだ」
「はい……っ! はい……っ!」
ヴォルフは涙を拭いもせず、一心不乱にスープを飲み干した。
かつて王都で高慢な総料理長として虚栄に浸っていた男が、スラムの小さな厨房で、一人の職人として真の第一歩を踏み出した瞬間だった。




