第44話 帰還と看板
王都から乗合馬車に揺られること二日。
レオンは懐かしい潮風と、少し煤けたスラム街の匂いを胸一杯に吸い込んだ。
白磁の石畳が続く王都の気取った街並みよりも、泥と木煙の交じるこの路地裏の匂いの方が、不思議と身体に馴染む。
「……お帰りなさい、シェフ!」
予約制専用店の扉を押し開けると、奥の調理場で仕込み包丁を研いでいたリゼがぱっと顔を輝かせた。解体台の前からは無骨な腕に包丁を握ったルカが、そして荷物の整理をしていたバルトも顔を出す。
「お帰り、シェフ! 王都での大暴れ、噂で聞いてるぜ!」
「……怪我はなかったか、ちびっ子シェフ」
「ああ。三人とも、留守中の店をしっかり守ってくれたようだな」
店舗の厨房も道具も、隅々まで完璧に磨き上げられていた。レオンが小さく口元を緩めると、リゼが誇らしげに胸を張る。
「ルカさんの解体してくれた肉と、シェフに教わったヨモギ塩豚スープで、留守中の屋台一号店も二号店も大盛況でしたよ!」
「そうか。……なら、今日の賄いは俺が特製のやつを仕込んでやろう」
旅の荷物を降ろし、いつものエプロンに腕を通す。
王都の豪華な厨房も悪くはなかったが、信頼できる職人たちが揃ったこの場所こそが、一番しっくりと手に馴染む。
* * *
翌朝。スラムの路地裏に置かれた屋台一号店と二号店の前は、開店前から異様な熱気に包まれていた。
「おいおい……なんだこの人集りは……っ!?」
バルトが屋台の仕込みをしながら、通りを埋め尽くす人波に目を丸くした。
集まっているのは、いつものスラムの住民や冒険者だけではない。身なりの良い王都の商人や、仕込み服を着た若い料理人、さらには身分を隠した貴族の給仕までもが長蛇の列を作っていたのだ。
「王都のジュリアン伯爵邸の大夜会で、『金の豚亭』を叩き潰した10歳の神童シェフの店はここか!?」
「噂の『薬膳ビスク』と『無糖の肉料理』を食べさせてくれ!」
王都の大夜会での噂は、一夜にして街中へ駆け巡っていたのだ。
「シェフ、どうする!? この数じゃ、二号店まで出しても仕込みが追いつかないぞ! 予約制の店舗を開けるか!?」
焦るバルトに対し、レオンはまな板の上で手際よく野草を刻みながら淡々と指示を出した。
「店舗は開けない。あそこはあくまでじっくり料理と向き合うための予約制専用だ。……屋台でも出せるレベルの、最高のスープと串焼きで勝負する」
「屋台だけで出すのかい、シェフ!?」
「ああ。下処理と火加減さえ完璧なら、屋台の設備でも食った奴の脳を揺さぶる一皿は作れる。ルカは肉の解体、リゼは切り分けと串打ちの統括だ。仕込みの分が終わったらその日の営業は終了。……身分も金も関係ない。並んだ順番に出す」
「了解です、シェフ!」
「任せとけ、肉のバラしなら任せてくれ」
ルカが無骨に頷き、リゼがテキパキと串打ちの準備を進める。
やがて、屋台の鉄板から香ばしい肉汁と野草ハーブの香気が立ち上り、行列の客たちへ焼き立ての肉串と澄んだスープが手渡されていった。
一口食すなり、王都からやってきた客たちは「これが……屋台で出てくる味なのか……っ!?」「胃に全くもたれないのに、旨味が怒涛のように押し寄せてくる……っ!」と激しく感嘆の声を上げた。
* **
昼過ぎ。用意していた屋台用の仕込みが全て底をつき、レオンが屋台に『本日終了』の木札を掛けようとしたその時だった。
「頼む! 一刻でいい、話を聞いてくれ!」
屋台の前に立っていたのは、ボロボロの旅装に身を包み、深く頭を下げた一人の男だった。
煤けた顔を上げたその男の顔を見て、レオンはうっすらと目を細めた。
「……ヴォルフか」
ジュリアン伯爵邸でレオンをあからさまに見下し、蜂蜜と脂の重たいソースに固執していた、あの元総料理長だった。
「伯爵邸を追い出され……『金の豚亭』からも切り捨てられた。王都のどの厨房にも、僕の居場所はなくなった……」
ヴォルフは震える手で、自分の擦り切れた包丁袋を握りしめていた。
「あの夜会で、君の料理を食べた。……自分の作ってきたものが、どれほど浅ましく、食べる者の体を痛めつけ誤魔化していたかと思い知らされたよ」
かつての傲慢さは微塵もなく、男は泥のついた膝をそのまま路地裏の地面へと突いた。
「お願いだ、レオンシェフ……! 僕を一番下の皿洗いからでいい、下働きとして使ってくれまいか! 君の『本物の料理』を、ゼロから学ばせてほしいんだ……!」




