第41話 川
翌朝。ジュリアン伯爵邸の厨房は、重苦しい静寂とパニックに包まれていた。
「せ……シェフ! 大変なことになりました!」
青ざめた顔で駆け込んできたのは、ジュリアンだった。その手には王都の商業ギルドや大卸からの不達通知が握られている。
「『金の豚亭』のルシアンが手を回した……。王都中の市場から、夜会用の牛や豚、鶏肉に至るまで全ての高級肉とハーブが買い占められ、我が家への納入が完全にストップされた。果物や蜂蜜もだ……!」
執事たちも青ざめ、「これでは夜会が開けない」「今から他都市から取り寄せる時間もない」と右往左往している。
だが、包丁の手入れをしていたレオンは、表情一つ変えずに小さく息を吐くだけだった。
「……そんな妨害、スラム街にいた時から折り込み済みだ」
「え……?」
ジュリアンが呆然と声を漏らす。レオンは砥石から包丁を離すと、冷ややかな目を向けた。
「綺麗な市場で売られている『既製品の肉やハーブ』なんて、俺は最初からアテにしていない。金で買い占められる程度の食材でしか勝負できないから、あいつらは浅いんだ」
「し、しかしシェフ、食材が無ければ料理は作れないんじゃ……」
「市場で買えないなら、買えないなりのルートを使えばいいだけの話だ」
レオンはそう言うと、羊皮紙に素早くいくつかの食材と薬草の絵、そして必要な部位を書き殴った。
「ジュリアン。これを持って、すぐに王都の冒険者ギルドへ向かえ。ガルムさんや『赤き鉄槌』に連絡を取るんだ。『黒沼地の野草』と『特定の魔獣の赤身肉』を急ぎで競り落としてもらえ」
「っ……! そうか、冒険者ギルドの流通ルートなら、商業ギルドの封鎖を完全に迂回できる……っ!」
「ああ。あいつらが手を出せない深い森や危険地帯の食材こそ、最高の新鮮さを持っている。……頼んだぞ」
「任せてくれ!」
ジュリアンが弾かれたように厨房を飛び出していった。
* * *
ジュリアンをギルドへ走らせた後、レオンは自ら革袋を肩にかけ、王都の外縁部を流れる清流へと足を運んだ。
貴族街の煌びやかな喧騒から離れたその川辺には、見向きもされない青々とした雑草群が群生している。
「……やはりあったな」
レオンは膝をつき、水辺の湿地に生い茂る草を摘み取った。
茎を折ると、ツンと鼻を突く強烈な清涼感と辛みが広がる。野生のクレソンと、辛味を持つカラシノの原種だ。貴族たちは「雑草」として踏みつけにしているが、肉の臭みを消し、脂の甘みを引き立てるにはこれ以上ない最高のハーブだった。
さらにレオンは、川の浅瀬に仕掛けられた小舟の漁師に声をかけた。
「おい。その網にかかっている小魚と淡水エビ、全部買い取る」
「え……? 小魚なんか骨っぽくて売り物にならんぞ? エビも小さすぎて誰も食わんが……」
「問題ない。大銅貨2枚でどうだ?」
「買、買い取ってくれるなら助かるよ!」
市場の商人が見向きもしない捨て値の食材。だが、三つ星シェフの知識にかかれば、それらは最高級のフランス料理における『ビスク(甲殻類ソース)』や『フュメ・ド・ポワソン(魚の抽出出汁)』の至高のベースへと化けるのだ。
* * *
夕刻。伯爵邸の裏門に、巨大な荷馬車が到着した。
馬車から降りてきたのは、汗を拭いながら不敵に笑うガルムと、『赤き鉄槌』の面々だった。
「おう、シェフ! ジュリアンから話は聞いたぞ! あの『金の豚亭』の豚どもがまた小細工しやがったらしいな!」
荷台から次々と運び出されたのは、冷やした魔導箱に詰め込まれた新鮮な魔獣の赤身肉と、湿地で摘みたての鮮烈なハーブたちだった。
「ギルド長も『あのシェフの料理が食える夜会なら、いくらでも協力する』って言ってたぜ。王都の商業ギルドなんぞに、俺たちの仕入れが邪魔できるかよ!」
「感謝する、ガルムさん」
レオンは運び込まれた極上の素材を見つめ、静かに包丁を握り直した。
高級市場の買い占めなど、何の意味もなさなかった。
王都の権力を誇るルシアンの足元で、貴族たちの常識を覆す『前代未聞の夜会フルコース』の仕込みが、静かに、そして確実に始まろうとしていた。




