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第40話 澄んだ食事


 差し出された小皿から立ち上る香りに、伯爵は思わず目を細めた。


 先ほどまでの重苦しい蜜と脂の臭いとはまるで違う。鼻腔を通り抜けるのは、澄み切った肉の香ばしさと、野山を思わせる清々しい芳香だ。


 伯爵は躊躇うことなくナイフを入れ、薄く切り分けられた鴨肉を口へと運んだ。


 噛みしめた瞬間――伯爵の目が大きく見開かれる。


「――っ!?」


 舌の上に広がったのは、過剰な甘みなど一切ない、鴨肉本来の濃密で力強い旨味だった。それをスイバのキレのある酸味が包み込み、重たくなりがちな肉の脂をすっと口の中で溶かしていく。


 喉を通ると同時に、冷え切っていた胃の奥がじわじわと温まり、長年の不快なもたつきが嘘のように引いていった。


「う……美味い……っ! なんだこの軽やかさは……っ! 噛むほどに食欲が湧いてくる……!」


 伯爵は夢中でフォークを動かし、あっという間に一皿を平らげてしまった。さらに皿に残ったソースまで惜しむように、添えられたパンで綺麗に拭い取って口にする。


「こんな爽やかで深い味わいのソースは……生まれて初めてだ。胃が……胃が軽い……っ!」

「な……なにぃっ!?」


 ヴォルフが目を見開き、信じられないといった様子で叫んだ。


「ば、馬鹿なっ! 鴨のガラと捨てられた雑草だけで作ったような品が、『金の豚亭』の極上蜜を使った料理に勝るはずが……っ!」

「黙れ、ヴォルフ!」


 伯爵が一刀両断するように一喝した。その声には、先ほどまでの疲れ切った面影はなく、力強い威厳が戻っていた。


「お前たちの料理は、高価な蜂蜜と脂で素材を押し潰していただけだ。……レオンシェフ、君の言う通りだった。私は美味いものを食っていたつもりで、ただ体に毒を溜め込んでいたのだな」


 伯爵はレオンに向かい、深く満足げに頷いた。


「決まりだ。近々の大夜会、我が邸宅の総料理長として全ての指揮を君に任せる」

「父上……っ!」


 ジュリアンが嬉しそうに顔をほころばせる一方で、ヴォルフは膝から崩れ落ち、蒼白な顔で震えていた。


「し、しかし伯爵様! そんなことをすれば『金の豚亭』本店や料理人ギルドが黙っておりません! 夜会用の高級食材の供給を止められる可能性も……っ!」

「構わん。本物の味を出せない店など、最初から必要ない」


 伯爵の冷ややかな一言に、ヴォルフは完全に絶句した。



     * * *



 その夜。王都の大通りに佇む巨大な洋館――『金の豚亭』本店。


 豪華絢爛な執務室で、ワイングラスを弄ぶ一人の男がいた。ポルクスの兄であり、王都の料理界を裏から牛耳る総支配人、ルシアンだ。


「……ほう。スラムのクソガキがジュリアン伯爵の胃袋を掴み、夜会の総指揮を任された、と」


 ひざまずく下っ端料理人から報告を受け、ルシアンは冷酷な笑みを浮かべた。


「ポルクスを煮え湯に飲ませたガキが、王都にまでしゃしゃり出てくるとはな。……ヴォルフの奴も使えない豚だ」


 ルシアンはグラスを机にトンと置くと、冷ややかな声で命じた。


「伯爵邸への食材ルートを今すぐ全て遮断しろ。王都中の市場に手を回し、肉一つ、ハーブ一つ、あのガキの手には渡すな。……仕入れの無い夜会で、どのような料理を出すのか見ものだな」

「はっ!」


 王都の権力を総動員した、レオンへの巨大な包囲網が静かに動き始めていた。

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