第39話 蜜の影
「騒々しいぞ。何の騒ぎだ」
威厳に満ちた声とともに姿を現したのは、深紅の外套を羽織った初老の男、ジュリアン伯爵本人の姿だった。
長年の執務による疲労からか、その顔色はどこか浅黒く、眉間には深い皺が刻まれている。
「伯爵様! ジュリアン様が身元の知れぬガキを連れ込み、あろうことか我々が誇る夜会用の至高のソースを『雑で重い』などと侮辱したのです!」
ヴォルフはここぞとばかりに大袈裟な身振りでレオンを指差し、鼻息を荒くした。
「ジュリアン、これはどういうことだ?」
伯爵の厳しい視線が息子へと向けられる。ジュリアンは一歩前へ出ると、誇り高く胸を張った。
「父上。このレオンシェフこそ、黒沼地での紫毒竜討伐戦において、兵たちの疲労を瞬く間に吹き飛ばし、毒竜の猛毒の肝すら至高の珍味に変えてみせた神域の料理人です。僕は、父上にこそ彼の本物の『料理』を味わっていただきたいと思い、お連れしました」
「……何だと?」
伯爵の目がかすかに見開かれる。
「馬鹿馬鹿しい! 毒竜の肝などただの毒の塊! 騙されておられるのです、坊っちゃん!」
ヴォルフが吐き捨てるように叫び、銀の蓋がついた深皿を掲げた。
「ご覧ください、伯爵様! 我が調理場が『金の豚亭』本店より取り寄せた最高級の極上蜜と、熟成肉をじっくり煮詰めた『黄金蜜の特製肉料理』でございます! この甘美で濃厚な香りこそ、王都の貴族街が誇る至上の味覚!」
蓋が開けられると、厨房に重苦しく甘ったるい蜜と脂の匂いが立ち込めた。
伯爵は一口食そうとフォークを伸ばしたが、その濃厚すぎる匂いに一瞬だけウッと眉をひそめ、力無くフォークを置いた。長年の贅沢な食事によって、胃腸が悲鳴を上げているのは明白だった。
「……見た目と匂いだけで重すぎる」
冷ややかに言い放ったのはレオンだった。
「肉の旨味を味わわせるどころか、過剰な甘みと油分で素材の風味を塗りつぶしているだけだ。そんなものを毎日食わされていれば、胃がもたれて食欲が失せるのも当然だな」
「ぬ、ぬにいぃぃっ……!? たかがスラムの餓鬼が調子に乗りおって! ならば貴様に何が作れるというのだ! この最高級の厨房で、我々を納得させられる一皿を出してみろ!」
激昂したヴォルフが調理場を指差す。
伯爵は静かにレオンを見つめ、低く呟いた。
「……面白い。ジュリアンがそこまで買いかぶる少年だ。一度、その腕を見せてもらおうか。ヴォルフ、調理場を使わせろ」
「は、はい……っ! フン、せいぜい恥をかくがいい!」
* * *
広い伯爵邸の調理場に立ったレオンは、周囲に並べられた高価な蜂蜜や珍味には一切目を向けなかった。
代わりに手に取ったのは、スープ用に用意されていた『鴨肉のガラ』と、調理場の隅に捨て置かれていた『野生のスイバ』、そして少量の塩だけだ。
「おいおい……高級ハーブも果実も使わんのか? ガラと雑草だけで何を作るつもりだ!」
ヴォルフたちが嘲笑する中、レオンは手際よく平鍋を火にかけた。
鴨のガラを高温で一気に焼き上げ、余分な脂肪分を丁寧に拭き取る。そこへ水と潰したスイバの根を投入し、魔法の【微風】で不要な臭みと水分だけを正確に蒸発させていく。
鍋の中で、鴨骨の芳醇な抽出液と、スイバの鋭いキレを持つ酸味が絶妙なバランスで凝縮されていく。
わずか十数分。
甘ったるい匂いに包まれていた厨房全体に、胸のすくような清涼感と、香ばしく透き通った肉の芳香が突き抜けた。
「な……んだ、この香りは……っ!?」
ヴォルフの顔色がガラリと変わる。
レオンは小さく切り分けたロースト鴨肉に、澄み切った野草ジュ・ド・キャナール(鴨の旨味ソース)を静かに回しかけ、伯爵の前へ差し出した。
「『鴨胸肉のロースト・野草スイバのジュ添え』だ。……冷めないうちに召し上がれ」




