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第36話 紫


 ズシン、ズシンと地響きが揺れ、黒沼地の紫霧が大きく引き裂かれた。


「――グオオオオオオオオッ!!」


 泥の底から姿を現したのは、ぬめる紫の鱗に包まれた巨躯と、蠢く三つの頭部を持つ巨大な魔獣『紫毒竜(ヒドラ)』だった。


 三つの口から吐き出される紫煙が、周囲の巨木を瞬く間にドロドロに溶かしていく。


「散れっ! ブレスが来るぞ!」


 ガルムの咆哮と同時に、冒険者たちが前線へと躍り出た。


 普段なら沼地の湿気と毒気で足が重くなり、息を乱すはずの過酷な環境。だが、レオンの『薬膳コンソメスープ』を腹に納めた討伐隊の動きは、普段の泥臭さを感じさせないほど軽快だった。


「――ぬおぉああっ!」


 ガルムが大剣を旋回させ、地面を蹴る。

 一気に間合いを詰めると、一番右の首へ向けて一閃を叩き込んだ。激しい金属音とともに紫の鱗が飛び散り、巨獣が悲鳴を上げる。


「魔法職、中央の首を足止めしろ! 前衛は左右から挟み込むぞ!」


 『赤き鉄槌』の面々も息の合った連携で大鎌や槍を打ち込み、怒涛のラッシュを叩き込んでいく。スープによって胃腸が温まり、血流が活性化されたことで、体のキレと集中力が異次元の領域まで跳ね上がっていた。


「な……なんだあの動きは……っ!?」


 後方で構えていたジュリアンは、目の前の光景に息をのんだ。


 黒沼地での戦闘は、体力を極限まで削られる消耗戦になるはずだった。それなのに、前線の冒険者たちは誰一人として息を切らすことなく、猛烈な手数で大型魔獣を圧倒している。


(まさか……本当にあのガキのスープ一杯で、ここまで体が……!?)


 ジュリアンが自分の手元を見る。持参した高級保存食の乾燥肉は、冷えた胃の中で重く溜まり、不快な胸焼けを起こしていた。体の芯から熱が湧き上がり、動きが研ぎ澄まされているガルムたちとは雲泥の差だった。


「――ギシャアアアッ!」


 追い詰められた紫毒竜が、激昂して巨大な尻尾を薙ぎ払った。


 泥飛沫とともに伸びてきた太い尻尾が、前線から少し外れていたジュリアンの頭上へと襲いかかる。


「くっ……!?」


 不快な胸焼けと足場の悪さに追いつかず、ジュリアンは剣を構えるのが一瞬遅れた。


 直後、横合いから飛び込んできたガルムの大剣が、紫毒竜の尻尾を力任せに弾き飛ばした。


 ズドオンッ!


「足が鈍ってんぞ、坊主! 高級保存食の重たい油が胃に溜まってんだろ!」

「が……ガルム……っ!」

「前線で生き残りたきゃ、余計なプライドは捨てて腹を整えな!」


 ガルムは鋭く吐き捨てると、再び跳躍。中央の首の喉元へ、魂を込めた突きを叩き込んだ。


「これで……終わりだぁぁぁっ!!」


 『赤き鉄槌』の大魔法とガルムの渾身の一撃が交差し、三つの頭部が次々と泥の中へと叩き落とされた。


 巨躯が横たわり、激しい地響きとともに紫毒竜は沈黙した。



     * * *



「よし! 紫毒竜の討伐完了だーっ!!」


 基地の簡易厨房で待機していたレオンたちの元へ、歓声とともに無傷の冒険者たちが戻ってきた。


「シェフ! あんたのスープのおかげで、誰一人重傷者を出さずに済んだぞ!」

「最高だった! 喉の奥の毒気が完全に消えて、最後まで体が軽く動いたよ!」


 賞賛の声が降り注ぐ中、レオンはすでに包丁と大鍋を準備して、解体班が運んできた紫毒竜の巨体へと歩み寄っていた。


「ガルムさん。竜の『頬の肉』と『尻尾の付け根』、それから『肝』を傷つけずに切り出してくれ」

「な……肝だと!? 竜の肝なんて毒の塊だぞ!?」


 バルトがぎょっとして声を上げる。


「そのまま食べれば猛毒だが、竜の肝は適切な血抜きをして、強い酸を持つスイバと塩で一晩漬け込めば、フォアグラをも凌ぐ絶品のコクが出る。尻尾の筋肉も、筋膜を丁寧に剥がせば極上の赤身肉だ」


 レオンは手際よくナイフを振るい、毒腺を完璧に避けながら、誰もが見向きもしない最高級の部位を切り分けていく。


 その職人技と無駄のない動きを、遠巻きに見ていたジュリアンが呆然と眺めていた。


「……スラムのガキ、か」


 ジュリアンはポツリと呟き、自らの浅はかさに顔を歪めた。


 権力や身分、高価な保存食など、この男の技術と知恵の前には何の意味もなさない。


 ジュリアンは意を決したように静かに歩み寄ると、レオンの前に立ち、小さく頭を下げた。


「……僕の負けだ、シェフ。……僕にも、そのスープを一杯分けてはくれないか」


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