第35話 湿地の呼び声
『金の豚亭』の言いがかりを退けてから数日。
スラムの薬種店跡地は、いつにも増して静まり返っていた。
「……シェフ、今日のアペリティフの準備はどうする?」
バルトが仕込み台の磨き上げられた包丁を布で拭きながら尋ねる。
「いや、今日の予約は入っていない。冒険者ギルドの方がバタついているみたいだからな」
レオンが答えた直後、激しい足音とともに重厚なオークのドアが押し開かれた。
飛び込んできたのは、息を荒らげたガルムだった。その表情には、いつもの余裕や豪快さは一切ない。
「レオン! 頼みがある……! お前の力を貸してくれ!」
「ガルムさん……? そんなに焦って、一体何があったんです?」
ルカが思わず身を乗り出す。
「王都へ続く南の『黒沼地』に、毒気を吐き散らす巨大な魔物……『紫毒竜』が居座りやがった。このままだと流通ルートが完全に遮断される。ギルドから総出の遠征討伐クエストが出たんだ」
「紫毒竜……」
バルトが顔をひきつらせる。沼地に潜む魔物の中でも、特に厄介とされる高ランクの毒獣だ。
「問題は現地での『食料』だ」
ガルムは渋い顔で頭をかきむしった。
「黒沼地は毒気と湿気で充満しててな、まともな干し肉やパンは半日も経たずにカビて腐る。水も毒が混じってて飲めねえ。おまけに毒気で胃がやられて、戦闘前には全員体力を削られてヘロヘロになるんだよ。……そこでギルド長に頼み込んで、お前を『遠征特別料理人』として同行させる許可を取ってきた」
「俺を……陣中食の料理人に、か」
「ああ。もちろん危険な前線には出させねえ。だが、お前のアク抜きや野草の知識、それに胃を温めるスープがあれば、俺たちは万全の状態で戦える。頼む、報酬は大銅貨や銀貨の域じゃねえ。受けてくれないか?」
レオンは少し思案したあと、静かに口元を緩めた。
「……ちょうど、沼地に自生する珍しい野草や、魔獣の肉の下処理法を試したかったところだ」
「助かった……! すぐに出発だ!」
* * *
翌日、黒沼地の入口に設置された前線基地。
鬱々と立ち込める紫色の霧と、足元をぬかるませる泥の臭いが、いや応なしに緊迫感を高めていた。
「おいおい……ガルム。本気かよ?」
集まった討伐隊の中で、一人の若い男が鼻で笑いながらレオンを見下ろした。
身につけているのは、スラムには到底つり合わない最高級の銀飾りが施された鎧。王都の貴族家出身で、実績作りのためにクエストへ出向してきている若き騎士、ジュリアンだった。
「命がけの大規模遠征だぞ? こんなスラムのガキを連れてきてどうする。料理なんて、干し肉と硬いパンをかじっておけば十分だろうが」
「黙ってろジュリアン。このシェフの腕は俺たちが保証している」
『赤き鉄槌』のリーダーが睨みつけるが、ジュリアンは不快そうに視線を逸らした。
「ハッ、スラムのメシなんて腹を壊すのがオチだね。僕は自分が持参した高級保存食しか口にしないよ」
レオン達はジュリアンの嫌味など意にも介さず、前線基地の簡易厨房に作業台をセットした。
「……ひどい泥臭さと毒気だな。普通に火を通しただけじゃ、食材に泥臭さが移る」
レオンは沼地の周囲を観察し、湿地の崖際にへばりつくように生えている『強い清涼感を持つ紫の野草(毒消し草の原種)』と、干し肉を引っ張り出した。
「バルト、大鍋に湯を沸かせ。ルカ、この野草の根を叩き潰して泥を洗い流せ」
「了解だ、シェフ!」
レオンは塩漬けの硬い干し肉を薄く刻み、叩き潰した野草と一緒に大鍋へ投入した。
さらに、魔法の【微風】で鍋の蒸気を巧みにコントロールし、肉のクセと臭みを蒸気とともに外へ追い出していく。
数十分後。
どんよりとした沼地の不快な臭いを切り裂くように、鮮烈で香ばしい肉の出汁と、胸のすくようなハーブの芳香が前線基地全体へと広がった。
「な……なんだこの匂いは……っ!?」
毒気で胃を痛め、顔をしかめていた冒険者たちが、吸い寄せられるように大鍋の周りへ集まってきた。
「『塩豚と湿地ハーブの薬膳コンソメスープ』だ。毒気を払って、冷えた胃腸を温める。戦う前に全員一杯ずつ飲んでいけ」
ガルムが真っ先に木碗を受け取り、一気に口へ流し込んだ。
「――っくあぁ……っ!! なんだこれ……っ! 腹の底からジュワッと熱が広がりやがる……っ! 身体の重さが一気に吹き飛んで、喉の奥の嫌な毒気が消えたぞ……っ!?」
「嘘でしょ……!? 体が、軽い……! 魔法をかけられたみたいに力が湧いてくるわ……っ!」
冒険者たちが歓声を上げ、争うようにスープを飲み干していく。
ただの干し肉と雑草が、三つ星シェフの「化学と加熱」によって、疲労と毒気を一瞬で打ち払う最高のコンディショニング・スープへと化けたのだ。
端の方で自分の高級保存食をかじっていたジュリアンも、ゴクリと唾を呑み込み、信じられないものを見る目でレオンの手元を凝視していた。
「……よし、全員万全だな」
ガルムが大剣を激しく引き抜き、沼地の奥を見据えた。
「野郎ども! シェフの最高の一杯を腹に収めたんだ! あのデカブツをサクッと片付けるぞっ!!」
『応――――っ!!』
最高潮に高まった士気とともに、討伐隊が紫毒竜の潜む沼地の深部へと踊り出していった。




