第3話 はじめての温もり
どれくらいの時間が経っただろうか。
欠けた鍋の底から、じわり、じわりと透き通った脂が染み出し、香ばしい肉の匂いが小屋の中に満ちていく。
かつての厨房なら温度計を打って正確な時間を測るところだが、いま頼れるのは自分の皮膚感触と、鼻腔をくすぐる匂いだけだ。
(脂の融点は……だいたい四十度前後か。肉汁を抱え込んだまま、コラーゲンがほどけ始めてる……)
じっと鍋底を見つめながら、集中力を切らさない。
指先から伝わる微かな熱の反応。ほんの少しでも気を抜けば熱が跳ね上がり、肉の細胞膜が破れて肉汁が垂れ流しになる。
「……よし、ここだ」
そっと手を離し、【微火】を止めた。
鍋の中に転がっているのは、さっきまでの血生臭い黒ずんだゴミ屑じゃない。
しっとりと深い朱色を帯び、表面にツヤツヤとした澄んだ脂肪の膜をまとった、美しき肉片だった。
耐えきれず、生唾をゴクリと飲み込む。
包丁を刺し、削ぎ切りにした熱々の肉切れをそのまま口へ放り込んだ。
「――つっ……!」
噛みしめた瞬間、溢れ出してきたのは強烈な「旨味」の濁流だった。
柔らかい。圧倒的に柔らかい。
筋張っていたはずの粗悪な肉が、歯を立てる必要すらなく、舌の上でハラハラとほどけていく。
血抜きによって臭みは削ぎ落とされ、かわりにオーク肉本来が持つ、豚よりも力強く甘やかな脂のコクが口いっぱいに広がった。
「う……美味ぇ……っ!」
十歳のレオンの小さな胃袋が、猛烈な歓声を上げて鳴り響く。
そういえば、この体になってからまともなものを何ひとつ喰っていなかった。泥水のような煮込みすら満足に与えられず、ずっと空腹に苛まれていたのだ。
一枚、また一枚と、手づかみで肉を口へ放り込む。
調味料は最初の薄い塩水だけ。ハーブも胡椒もない。なのに、完璧な火入れによって引き出された素材のポテンシャルが、圧倒的な美味となって脳を揺さぶる。
(……待てよ。この肉、豚肉よりも脂の質がいい。どんぐりを喰わせたイベリコ豚……いや、それ以上のポテンシャルがあるぞ)
冷めていく肉を指でつまみながら、頭の中で計算が弾けた。
この世界の連中は、この極上の食材を「臭くて硬いゴミ」と決めつけ、クタクタになるまで煮潰してドブみたいな味で食っている。
上級貴族すら、ただ香辛料をブチ込んで焼き固めたパサパサの肉を有難がっているらしい。
「バカじゃねえの……本当の美味さを何ひとつ知らねえんだ」
口元の脂を、破れた袖口でガシガシと拭う。
このオークの粗屑なら、スラムの廃品市で二束三文で手に入る。
設備もいらない。俺の手と、このガラクタみたいな【微火】さえあれば、どんな高級店も青ざめるような極上の一品が作れる。
「……屋台だ」
ボロ小屋の暗闇の中で、思わず声が出た。
路地裏の片隅に屋台を引く。
泥水をすすって生きてる貧民どもに、本物の「食」ってやつを叩き込んでやるんだ。
ついでに、このクソみたいな生活から這い上がるための銭も稼ぐ。
「待ってろよ、この街の連中……プロの料理って奴を、腹いっぱい食わせてやるからな」
レオンは誰もいないボロ小屋で、ニヤリと不敵に笑った。




