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第2話 マイクロ・ヒート


 手の中の肉は、相変わらず冷たく、そして酷く重かった。


 オーク肉――豚に似た魔獣の粗屑(あらくず)。


 血抜きもされずに放置されたため、表面には黒ずんだ血がこびりつき、脂肪分は嫌な黄色に変色しかけている。手で触れると脂の粘り気が指にまとわりつき、鼻をつく野獣臭と腐敗の走りが脳の危険信号を鳴らしていた。


(これを水と塩だけで煮る? 冗談だろ……そんなの喰ったら腹を壊す以前に、舌が死ぬ)


 ボロ小屋の中を見回す。


 棚には、欠けた陶器の深鍋がひとつ。


 蓋すらない。塩と思われる粗い灰色の粒が固まった小さな壺。あとは、ろくに研がれていない鈍い灰色の包丁が一本。


 まな板なんて高級品はない。平らな石板が床の隅に転がっているだけだ。


「はぁ……西麻布の厨房なら即ゴミ箱行きだな」


 思わず溜め息が漏れた。だが、同時に胸の奥が熱く熱せられていくのを感じる。


 極上の素材を最高の技法で仕上げるのはプロとして当然だ。だが、誰もが見捨てた『ゴミ』を、己の知識と技術だけで誰もがひれ伏す一皿に変える、それこそが、職人(シェフ)の真骨頂じゃないか。


 まずは血抜きだ。


 水道なんて気の利いたものは当然ない。小屋の隅にある木桶には、昨日汲んできたらしい少し濁った水が溜まっている。


「……まずは表面の菌と酸化した脂を削ぎ落とす」


 錆びかけた包丁を手に取り、石板の上で肉を削る。


 刃こぼれした鈍い刃だが、十歳の小さな手でも力を込めればなんとか通る。表面の黄色く変色した脂と、血が固まった薄膜を薄く薄く削ぎ落としていく。


 肉の繊維を見極め、引きちぎられた筋に沿って余計な部分を切り捨てる。これだけで、鼻を刺す嫌な酸っぱい臭いが半減した。


 次に血抜きだ。


 桶の水に塩壺から灰色の塩を二つまみ。そこに削った肉を沈める。


 本来なら香味野菜やハーブ、できれば酒が欲しいところだが、文句を言っても始まらない。


 薄い塩水の中で、肉の表面をもみ洗いし、筋肉の中に溜まった黒い血を少しずつ押し出していく。


 じわじわと水が薄赤く濁っていく。


 三度ほど水を替え、水気をきっちり拭き取る。


 ふきんすらないので、着ているボロ布の比較的綺麗な裾を使った。


「……よし。これで最低限の下処理(パルパレ)は完了だ」


 肉を鼻に近づける。


 完全には消えていないが、あの強烈な野獣臭は鳴りを潜め、どこか力強い肉本来の匂いが顔を覗かせていた。


 問題はここからだ。


 火入れ。


 この世界にはコンベクションオーブンも、精密な温度計もない。あるのは竈(かまど)と、湿った薪だけ。


(待てよ……レオンの記憶だと、なんかあったな)


 記憶の引き出しを漁る。


 この世界の人間なら誰でも使える、最底辺の『生活魔法』。


 本来はろうそくに火を灯したり、濡れた服を乾かす程度の、誰も戦闘には使わないガラクタみたいな能力。


「【微火(マイクロ・ヒート)】……か」


 肉を包丁で薄切りにし、欠けた鍋に並べる。水は張らない。


 鍋底に小さく手をかざし、意識を集中させる。


 ぽっ、と掌の下で小さな熱が生まれた。

 ろうそくの火よりも小さく、か弱な温もり。

 普通の奴なら「湯すら沸かせねえゴミ魔法」と吐き捨てるだろう。


 だが――俺の目は見開かれていた。


(……おいおい、嘘だろ。これ……温度のムラが全くない……!?)


 現代の厨房機器でも苦労する「コンマ一度単位の微細な熱量調整」。


 それが、自分の皮膚感覚と直結して、鍋全体に均一に伝わっていく。


 熱すぎるな。下げろ。五十五度……いや、五十八度だ。


 肉のたんぱく質が固まり始める直前、コラーゲンがじっくりと溶け出す絶妙な温度帯。


 薪の火じゃ絶対に不可能な、神業のような低温調理(スロー・クッキング)が、このボロ小屋の小さな手の中で始まっていた。


「……くくっ、最高じゃねえか、異世界」


 鍋の中から、ほんのりと甘い脂の香りが立ち上り始めた。

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