第1話 五十八度の未練
「――離れろ金城! コンベクションが逝くぞ!」
怒号。直後に鼓膜を圧迫する重低音と、破滅的な金属音。
西麻布『クロキ』の厨房は、一瞬で地獄と化した。
配管の不調か、あるいは排気の目詰まりか。過熱された熱交換器が限界を超え、激しい異音と異臭を撒き散らしている。ダクトから噴き出す黒煙が、磨き上げられたステンレスの天井を汚していく。
客と若いスタッフは全員表へ逃がした。逃げ遅れた奴はいない。だが、俺、四十二歳になった黒木創の足は、どうしても調理場の奥から動かなかった。
庫内には、一週間じっくりと乾式熟成させたエゾシカのロースが入っている。
表面の水分をほどよく飛ばし、ナッツのような芳醇な香りを纏わせた最高の肉塊。中心温度をちょうど五十八度に保ち、細胞膜を壊さず肉汁を閉じ込める絶妙な火入れの真っ最中だったのだ。
あと数分……たったあと三分で、完璧なロゼ色に仕上がるはずだった。俺の料理人人生の中でも、一二を争う極上の一皿になるはずだったんだ。
(ここで引けるかよ……せめて、この肉だけは)
把手に手を伸ばした瞬間、視界が真っ白な光に塗りつぶされた。
熱いとも痛いとも感じない。
ただ、鼻の奥に焦げた肉の匂いと、嫌な鉄の味がこびりついたまま、俺の意識はぶつりと途切れた。
* * *
「おい……起きろよレオン! 死んでんのかガキが!」
頭を雑に踏みつけられるような感覚で、泥の中から引っ張り出されるように意識が浮上する。
「う、ぐ……っ」
喉から漏れたのは、情けないほど高い声だった。
自分の手を見て、息が止まる。
汚れの詰まった短い爪。ガリガリに痩せ細った手首。包丁ダコだらけだった熟練の右手の掌はどこにもなく、まるで小枝みたいに頼りないガキの手だ。
「いつまでボサっとしてやがる。ほら、今日の分のオーク肉の屑だ。さっさと洗って鍋にくべろ!」
どさりと床に放り投げられた肉塊を見て、強烈な吐き気が込み上げた。
血抜きすらされていない黒ずんだ肉の切れ端。表面はヌメり、脂が酸化した酸っぱい臭いと猛烈な野獣臭が、狭い小屋の中に充満する。ハエすら寄り付かないような代物だ。
同時に、頼んでもいない記憶が一気に脳味噌へ流れ込んできた。
グランベル王国、王都のスラム街。
湿った泥とドブの匂い。煤けた石造りのボロ小屋。
出稼ぎに出て行ったきり帰ってこない親。
レオンという名の、今日食べるものにも困る身寄りのないガキ……それが、今の俺の正体らしい。
(……まじかよ。あの爆発で吹き飛んで、こんな所で生き直せってか……?)
頭を抱えたくなるのを必死で耐える。
だが、呆然としながらも、俺の視線は床の粗悪な肉塊から離れなかった。
粗暴な大人が舌打ちを残して去ったあと、俺は震える手でその生臭い肉をつまみ上げる。
ひでえ有様だ。血が残ったまま放置され、筋も引きちぎられたままで、表面には雑菌が沸き始めている。この街の連中は、こんな腐りかけの肉を水と塩だけで泥みたいになるまで煮詰めて腹に流し込んでいるらしい。
食文化もへったクレもない。ただ胃袋に燃料をぶち込んでいるだけだ。
「こんなの……食材への拷問だろ……」
胸の奥から、フツフツと怒りにも似た感情が湧き上がってくる。
ボロ小屋の寒さも、スラムのドブ臭さもどうでもよくなった。
三十年以上叩き込んできた料理人の業が、勝手に手のひらから突き上げてくる。身体は十歳でも、俺の頭と感覚は、あの西麻布で三つ星を張っていた職人のままだ。
「……おいおい。こんな酷い肉、どうやって食えるレベルまで戻せばいいんだよ」
文句を言いながらも、頭の中では下処理の手順が勝手に組み上がり始めていた。
血抜き、臭み消し、表面の雑菌のカット、そして適切な火入れ。
声は完全に子供のものだったが、俺の口元には不敵な笑みが浮かんでいた。




