第28話 銀狼の饗宴(前編)
スラムの冷たい夜気の中、石造りの薬種店跡地にひっそりと明かりがともった。
かつて薬草の匂いが染みついていた廃屋は、ルカやバルトの手によって磨き上げられ、静謐な空気を纏う隠れ家へと姿を変えていた。
重厚なオーク材のドアが押し開かれ、低い鈴の音が響く。
入ってきたのは、背中に巨大な大剣を背負った男、上位冒険者パーティ『银狼の牙』のリーダー、ガルムだった。その背後には、しなやかな身こなしの女弓手や、気難しそうな目つきをした長杖の術士など、数々の修羅場を潜り抜けてきた歴戦の仲間たちが続く。
「おいおい……バルトの奴に言われて来てみれば、本当にスラムの裏路地じゃねえか。こんな場所で『コース料理』だと?」
ガルムは店内を見回し、鼻で笑った。
だが、店内へ一歩足を踏み入れた瞬間、パーティの面々の顔つきから侮りが消えた。
生ゴミと泥の匂いが漂うスラムの雑多な空気は完全に遮断され、店内にはほのかに香ばしい木と、清涼なハーブの香りが漂っていた。中央にぽつんと置かれた磨き上げられた一卓、最大6名分の席しかない完全なプライベート空間。
「いらっしゃいませ。今夜は『銀狼の牙』の皆様の貸し切りです」
奥の厨房から姿を現したのは、真っ白なアプロンを身に纏った10歳の少年、レオンだった。
「……おいガルム、マジかよ。店主ってのはこのガキか?」
「油断するな。前に話しただろ。あのワイバーンの肉を化け物みたいに美味く焼いた少年シェフだ」
ガルムが仲間を制し、重々しく木製チェアーへ腰を下ろす。
「いいか、レオン。俺たちは今日、ダンジョン深層の遠征から戻ったばかりで腹が減りすぎて死にそうなんだ。大通りの高級店みたいに、ちっぽけなパンと気取ったスープで延々と待たせる気なら、金は払わんぞ」
「ご安心を。お席に着かれた瞬間から、料理はすでに始まっています」
レオンが静かに合図を送ると、トレイを持ったリゼが緊張で少し手を震わせながら、人数分の小さな透明な小杯を運んできた。
「まずは食前酒……『野生柑橘と微風香草のアペリティフ』です」
「……酒ぁ? 腹が減ってるって言ってんのに酒かよ……」
ガルムは眉をひそめながらも、差し出された小杯を一気に煽った。
直後、ガルムの口動きがピタリと止まる。
「あ……? なんだこれ……安酒独特のエグみや雑味がまったくねえ……っ!? 喉を通った瞬間に、爽やかな果汁の酸味とハーブの香りが胃袋まで一直線に落ちていきやがる……っ!」
「なによこれ……! 遠征続きで重たく痺れてた胃が、急に『飯を喰わせろ』って内側から突き上げてくるみたい……っ!」
弓手の女戦士も、目を丸くして自分の腹を押さえた。
【微風】で不要な揮発臭を吹き飛ばした安酒に、野生果実の鮮烈な酸とハーブの刺激をあわせた一杯。胃粘膜を優しく刺激し、消化液の分泌を爆発的に促すフレンチの緻密な仕掛けだ。
「胃の準備が整ったところで、最初の一皿です」
レオンが差し出したのは、香ばしく焼き上げられた指先ほどの小さなパイ、アミューズ・ブーシュだった。
「『霜竜の端肉とキノコのミニ・リエット』です。温かいいうちに一口でどうぞ」
ガルムは太い指でそれを摘み、半信半疑のまま口の中へ放り込んだ。
サクッ。
軽い咀嚼音が厨房に響いた瞬間、ガルムの体がびくんと強張った。
「ぶはっ……! な、なんだこの怒涛の肉汁と香りは……っ! 噛んだ瞬間に、パイの香ばしさとトロトロに溶けたワイバーンの濃厚な旨味が、口の中で弾け飛びやがった……っ!」
「あんなに固くて繊維の塊みたいだったワイバーンの端肉が、なんでこんなになめらかに溶けるの……っ!?」
術士の男も、サクサクのパイ生地と濃厚な肉のペーストが織りなす圧倒的な旨味に絶句している。
食前酒によって極限まで胃袋の準備を整えられ、そこに投下された一粒のアミューズが、彼らの舌の味蕾を狂わせる。
「……クソッ、おい! 足りねえぞガキ……いや、シェフ! 次だ! 次の肉を早く持ってこい!」
猛獣のように目を血走らせるガルムに対し、レオンはフッと口角を上げただけで、静かに奥の仕込み台へと戻っていく。
「焦る必要はありません。コースはまだ始まったばかりです。……次はお口とお腹を温める、透明な一皿をお持ちします」
異世界の猛者たちを完膚なきまでに魅了する「ガストロノミーの沼」は、まだ始まったばかりだった。




