第19話 はじめての拠点
手押し車での営業を終えた夕刻。スラムの街角に沈む夕闇の中、レオンたちは三人で路地裏を歩いていた。
案内するのはゴルドだ。巨体で複雑なスラムの路地を迷いなく突き進み、大通りへと抜ける裏道の一角で足を止めた。
「ここだ、シェフ」
目の前に建つのは、周りの木造バラックとは異なる、重厚な石造りの二階建て物件だった。湿気と苔に覆われているが、骨組みは驚くほど頑丈そうだ。
「元は薬種屋だった場所だ。煙出しの煙突も残ってて火事の心配もねえ。だが……問題はこの物件を握ってる地主だな」
「地主……? スラムの裏の顔役か?」
「いや」と、後ろで腕組みをしていたバルトが嫌そうに顔をしかめる。
「『蛇の目』の先代が死んで、跡を継いだ一人娘のマルニだ。見た目はただの幼いガキだが……とんでもねえ偏屈で強欲な小娘だぜ」
ゴルドが重い木の扉を押し開けると、埃っぽい店内の奥、ランプの光の中に小さな影がぽつんと座っていた。
ダボついた高級な外套を羽織り、小さな素足を組んで椅子に腰掛けているのは、十歳にも満たないような少女、マルニだった。その瞳には、親を失ってスラムの利権を一人で守ってきた特有の、鋭く冷ややかな光が宿っている。
「……何の用かしら。あたしのシマで勝手に屋台を引いてるガキと、その用心棒たちかい?」
マルニは不機嫌そうに鼻を鳴らし、レオンたちを見下した。
「挨拶と商談だよ、地主さん」
レオンは一歩前に出ると、静かに店内を見回した。石造りの頑丈な壁に、広い厨房スペース。理想的な環境だ。
「この物件を借りたい。……ただし、すぐに店を開くわけじゃない」
「ハァ……? 開店もしないのに借りるってかい? 意味がわからないわね」
マルニが眉をひそめる。レオンは動じることなく、前世で培った冷徹な経営理論を淡々と口にした。
「屋台の足場と資金をもっと固めてから、満を持して開店する。だから今は『権利の押さえ』だ。毎月、相場の半額の権利収入をあんたに支払う。その代わり、この物件を他の奴に貸さない保証と、開店準備のための改修許可をくれ」
「ふん、バカにしないで。半額の賃料なんて呑めるわけないでしょ。今すぐ全額払うか、出ていきなさい!」
マルニがツンと澄まして跳ねつける。だが、レオンは静かに微笑んだ。
「あんたも困っているはずだ、マルニさん。この物件は頑丈だが、長年放置されて湿気が溜まっている。放置すれば木枠が腐り、資産価値は落ちる一方だ。俺が権利を買い取れば、毎日風を通し、厨房の改修も俺たちの資金で進める。あんたはノーリスクで不労所得と物件の価値維持を手に入れることになる」
「……っ」
マルニの瞳が揺れた。十歳のレオンが口にした「資産価値」や「不労所得」という言葉の重みを、スラムの利権を管理する少女は正確に理解したのだ。
「それに」と、レオンは懐から出来立ての『熟成ベア肉の串焼き』を取り出し、そっと差し出した。
「まずは味見だ。この肉を焼く店ができると思えば、悪くない投資だろ?」
香ばしいハーブと焦がしバターの香りに、マルニの小さな鼻がピクピクと動く。
おそるおそる肉を一口かじり取った瞬間、少女の澄かした顔が劇的に崩れ、両手を頬に当てて目が丸くなった。
「な……なによこれ……! 美味すぎるじゃない……っ!!」
「契約成立でいいな?」
「うぅ……っ! し、仕方ないわね! 権利だけなら半額で貸してあげるわよ! その代わり、準備中もたまにその肉を差し入れすること! いいわね!?」
真っ赤になった顔で契約書を叩きつけるマルニを見て、バルトとゴルドは開いた口が塞がらなかった。
焦ってすぐ開店するのではなく、拠点を確保しつつ時間をかけて理想の店舗を作り上げる。
10歳のシェフの周りに、また一人、力強い(?)協力者が加わった瞬間だった。




