第16話 裏メニュー
ワイルド・ベアの腿肉に【微風】と【微火】による乾燥熟成を施してから、丸三日が経過した。
ボロ小屋の影、もっとも風通しが良く湿気の溜まりにくい場所に吊るされていた肉塊は、三日前とは似ても似つかない姿に変貌していた。
表面は水分が完全に抜け落ちて黒ずみ、まるでカチコチに固まった木の幹か、干からびた岩石のようだった。
「おいおいシェフ……これ、本当に大丈夫なのか……? どう見ても干からびて真っ黒焦げじゃねえか。いくらなんでも腐らせちまったんじゃねえの……?」
見張りをしていたゴルドが、腰の斧に手を当てたまま、おそるおそる肉塊を指先で突いた。コンコンと、乾いた硬い音が小屋の中に響く。
「腐っているんじゃない。『熟成』だ。表面を意図的に乾かして皮膜を作り、旨味を内側に閉じ込めながら、肉自身が持つ酵素の力でタンパク質をゆっくり分解させたんだよ」
レオンは表情ひとつ変えず、砥石で研ぎ澄ませた包丁を静かに握り直した。
「見ていな」
レオンは肉塊をまな板の上に据えると、黒く固まった表面の不要な皮膜へ刃を当てた。
ザクッ、ザクッ……。
削り節を削るような硬い音が響き、黒い皮がはらりとはがれ落ちていく。
そして、その内側から現れたのは、目を見張るほど鮮烈で、ツヤツヤと光沢を放つ『深紅の肉面』だった。
皮膜が削ぎ落とされた途端、狭い小屋の中にふわりと異様な香気が立ち上った。
それは血生臭さなど微塵もない。熟成された濃厚なチーズや、香ばしいナッツを思わせる、甘く芳醇な香りだった。
「……なっ!?」
食材の様子を見にやってきていたバルトが、思わず目を剥いて前かがみになった。
「血の臭いが……完全に消えてやがる……!? なんだこの匂いは……! まるで熟した果実か、高級な酒蔵の中にいるみてえな甘い香りがしやがるぞ!?」
「表面の不要な部分をトリミングして、中の極上な部分だけを取り出す。これがドライエイジングの真髄だ」
レオンは熟成された肉塊の厚みを見極め、包丁の刃先をすっと滑らせた。
数日前、バルトが持ち込んだ時には包丁すら跳ね返していたカチコチの筋肉繊維。それが今や、刃が吸い込まれるようにスッと吸着し、吸い付くような手応えとともに美しく切り分かれていく。極太だった筋までがしっとりと解け、しなやかな柔らかさを得ていた。
「よし……理想的な熟成具合だ」
厚切りに切り分けた肉を、あらかじめ【微火】でじっくりと加熱しておいた厚手の鉄板の上へと並べる。
ジュワアアァァッ……!
激しい音とともに、肉の表面が一瞬で香ばしく焼き固められていく。肉汁を内側に閉じ込める絶妙な火入れだ。
仕上げに、バルトが仕入れてくれた安バターと、手で潰したフレッシュハーブを鉄板の端へ投入する。
ジワリと溶けたバターがハーブの風味を吸い上げ、香ばしい褐色へと色づいていく。レオンはスプーンを取り、溶けた焦がしバターを肉の表面へ何度も何度もすくい回しかけた、フレンチの基本技法『アロゼ』だ。
ナッツのような熟成香と、香草焦がしバターの芳醇な風味が混ざり合い、もはやスラムの小屋の中とは思えないような至高の香気が充満していく。
「さあ、出来上がりだ。屋台の特別な裏メニュー『熟成ベア肉の厚切りロースト〜香草焦がしバターソース〜』」
木皿に盛り付けられたのは、表面は香ばしく焼き色(マイヤール反応)がつき、ソースが艶やかに絡みついた分厚いステーキだった。
「……喰って、いいのか!?」
待ちきれない様子で、ゴルドがナイフも使わずに肉塊を指で掴み、豪快にかぶりついた。
一口噛みしめた瞬間、ゴルドの巨体がピキッと硬直する。
「――っ!? や、柔らかえ……っ! 噛んだ瞬間に、歯がすんなり通る……! それに……なんだこの濃厚な旨味は!? 噛むたびに、口の中で肉汁が爆発しやがる……っ!!」
バルトも慌てて肉を一口大にちぎり、口へ放り込んだ。次の瞬間、両目を白黒させて喉を鳴らす。
「う、美味ぇぇぇっ! あのゴムみたいだったベア肉が……王都の最高級店でもお目にかかれねえような極上品になってやがる……! ちびっ子シェフ、お前マジで魔法使いかよ!?」
「魔法じゃない。素材の欠点を殺し、長所を極限まで引き出す『料理の技術』だ」
二人の興奮と絶賛を静かに受け止めながら、レオンはふっと満足げに目を細めた。
屋台の価値と評判をさらに揺るぎないものにする、極上の『裏メニュー』がここに完成したのだった。




