第36話 王都へ届く風
ノースヴェイルの極寒を抜け、穏やかな海風がアルティザン号の帆を揺らしていた頃。王都の中心に佇む最高峰のレストラン『ガストロノミー・レオン』の厨房には、早朝から研ぎ澄まされた包丁の音が規則正しく響いていた。
「ルカシェフ! 本日仕入れた霜降り羊肉の下処理、完了しました!」
「うん、綺麗に余分な脂が落ちてるな。でも、表面の水分をもう少し拭き取ってから冷やして。塩の入り方が変わっちゃうから」
整えられた調理用コックコートを身にまとったルカは、かつてレオンが立っていた中央の盛り付け台に立ち、若手料理人たちへ的確に指示を出していた。
レオンからこの厨房のすべてを託されてから数ヶ月。最初は「あのレオンシェフの味を守れるのか」という重圧に夜も眠れない日々が続いた。だが、レオンから叩き込まれた調理理論と素材へのアプローチを愚直なまでに実践し、ルカは今や見事に『ガストロノミー・レオン』の看板を支える主厨となっていた。
「……ふぅ。仕込みの進み具合は順調だな」
ルカが汗を拭っていると、厨房の勝手口から重厚な木箱を抱えたヴォルフが姿を現した。スラム街に作った衛生工房の事業責任者となり、すっかりたくましい実業家の顔つきになった男だ。
「よお、ルカ。冒険者ギルドへの今週分の『濃縮スープキューブ』、無事に納品完了したぜ。ギルド長が『これのおかげで遠征隊の生存率が過去最高になった』って大喜びでな。追加の注文まで引き受けてきた」
「さすがヴォルフ、手際がいい。でも、衛生管理だけは手を抜くなよ?」
「分かってるって。ルカに怒られたらシェフに顔向けできねえからな。……で、そっちはどうだ?」
ヴォルフが店内を見渡しながら尋ねると、ルカは控えめに笑った。
「王都の常連さんたちも、最初はシェフが不在だって聞いて不安そうだったけど……今は納得して通ってくれてるよ。屋台街の売上も順調だしね」
「そうか……。みんないつかシェフが戻ってきた時に、胸を張って『任せてくれ』って言えるように必死だな」
ヴォルフが感慨深そうに呟いたその時、店の表からマルニが手紙と羊皮紙の束を手に駆け込んできた。
「みんな! 北方と南方の交易商組合から、すごい情報が入ってきたよ!」
「噂……? まさか、レオンシェフの?」
ルカとヴォルフが身を乗り出すと、マルニは興奮気味に広げた紙を示した。
「そうだよ! 南の港町サン・ロサリアで『誰も食わなかった食材を極上の逸品に変えた謎の船上料理人』が話題になったと思ったら、今度は北方の港町ノースヴェイルだよ! 食糧商工ギルドの市場独占を、投げ捨てられていた鬼棘ウツボの白湯スープとフリットで完全に打ち砕いたんだって!」
「……鬼棘ウツボの白湯スープ!?」
ルカの目が驚愕で見開かれた。
「あの硬くて骨だらけの未利用魚を、コラーゲン抽出の包丁仕事と熱効率で極上に変えたのか……! 間違いない、レオンシェフだ。どこへ行っても、その土地の捨てられた食材と職人技で、街の食を変えちゃってるんだ」
「ははっ、相変わらず無茶苦茶な! ギルドの嫌がらせをウツボ一つで返り討ちにするなんて、目に浮かぶようだ!」
ヴォルフが豪快に笑い声を上げる。ルカはマルニから受け取った噂のメモを大切そうに胸に抱きしめ、静かに自らの手元を見つめた。
「……シェフ。俺たちも負けていられませんね」
遥か遠い海の上で、今も新しい食のガストロノミーを切り開き続けている師の背中。
ルカの胸に、かつてない温かな情熱が静かに、そして激しく燃え上がっていた。




