第35話 欠けた座席
ノースヴェイルを離れて三日。船体を揺らし続けていたノースヴェイル独特の刺すような大寒波は徐々に鳴りを潜め、代わりに湿り気を帯びた穏やかな風が『アルティザン号』の帆を押し始めていた。
だが、甲板に流れる空気は、どこか一つ大きな穴が空いたように静かだった。
「はい、面舵一杯。風を横腹で受けるわよ」
操舵輪を握るエレナが、分厚い手袋越しに力強く舵を切る。普段ならバルトが豪快な声と共に腕力任せに回していた場所だ。
エレナは船の構造と滑車の力学を頭の中で計算し、最小限の力で巨船の進路を微調整していた。
「補強ロープのテンション、良し。力仕事も手順さえしっかり組めば、二人で十分回せるわね」
甲板のシーフックを手際よく巻き上げていたシェラが、汗を拭いながら小さく息を吐く。
「手際が良すぎて拍子抜けするくらいだな。……まあ、急に甲板が広くなった気はするが」
「ふふ、声のボリュームがいつもの三分の一だものね。静かで仕事は捗るけれど」
エレナがくすりと笑い、視線を甲板の奥へと向けた。
厨房では、レオンが船倉から運び出した保存食材の点検を行っていた。ノースヴェイルで調達した根菜類に塩漬けの肉、そしてギドから出航間際に持たされた地元の乾物類。
「レオン、そろそろお腹が空いたわ。バルトがいない分、賄いの減りは遅いはずだけど」
操舵をシェラと交代したエレナが厨房へ顔を出し、木の椅子に腰を下ろした。
「ああ、すぐに作る。ノースヴェイルの寒気は抜けたが、長旅の湿気と疲労が体に残っている頃だ」
レオンが取り出したのは、乾いた寒風で限界まで水分を抜いた『干しタラ』と、ノースヴェイル特有の発酵干し野菜、そして船倉に眠っていたオリーブオイルだった。
「乾物は水分を戻すだけじゃない。油の中で低温でじっくり温め、魚肉のタンパク質と旨味成分をオイルへ移す。そこに干し野菜の酸味と香辛料を合わせれば、胃に負担をかけずに体温を高める」
土鍋の中で、オリーブオイルとニンニクがグツグツと微小な泡を立てる。戻した干しタラの身がオイルの中でホロリとほどけ、濃厚な白濁スープのようなアヒージョ仕立ての煮込みが完成した。香ばしい蒸気が狭い船内に広がる。
「熱いうちに食え。カリカリに焼いたハードパンを浸すといい」
「いただきます……ん、すごいわね。塩気が角立っていなくて、オイルなのに後味が驚くほど軽やか」
パンを浸して口に運んだエレナの目が丸くなる。シェラも大皿からパンを取り、熱々の干しタラをのせて頬張った。
「うまい……。体が内側から解れていくのがわかる。バルトがいたら、これだけでパン一袋丸ごと平らげていただろうな」
「あいつなら、パンじゃなくて大鍋ごと抱えて食っていただろうな」
レオンがボソリと呟くと、厨房の中に小さな笑いが弾けた。
寂しさを消す必要はない。かつて同じ釜の飯を食べた男の面影を胸に抱きながら、アルティザン号は着実に、新たな海域への航路を切り開いていた。




