第34話 旅立つ帆と、消えぬ火種
氷点下の冷気が港全体を包み込む早朝、アルティザン号の甲板には抜けるような青空と、出航を告げる冷たい風が吹き抜けていた。
凍てつく桟橋の上には、新しく仕立てた木組みの屋台を傍らに引いたバルト、その隣で静かに寄り添うミルカ、そして腕を組んで佇むギドの姿があった。さらに後ろには、噂を聞きつけた街の労働者たちが、バルトの新しい門出を見送ろうと集まり始めている。
「船長、風向きは良好よ。いつでも出航できるわ」
エレナが操舵席から声をかけ、シェラが太いもやいロープをゆっくりと解きほぐしていく。
レオンはタラップを降り、静かにバルトの前へ歩み寄った。背中に抱えた革包みを解くと、中から長年愛用してきたズッシリと重い黒鉄のダッチオーブンと、研ぎ澄まされた頑丈なペティナイフを取り出し、無造作にバルトへ差し出した。
「これを受け取れ。ダッチオーブンはお前が火加減を叩き込まれたものだ。ナイフはお前のような太い手でも扱いやすいよう、柄を少し削ってある」
「レオン……これ、シェフがずっと使ってたやつじゃ……」
「俺には予備がある。それに、ノースヴェイルの大寒波に負けない熱を作り続けるには、信頼できる道具が必要だ」
バルトは受け取った鉄鍋のずっしりとした重みと、手のひらに馴染む木柄の感触を噛み締めるように力強く握りしめた。その目から、ボロボロと溢れ出る涙が止まらない。
「仕込みを怠るな。客の顔をよく見ろ。火を絶やすな」
「へい……! へいっ! 絶対、絶対に忘れません! この街の胃袋は、俺とミルカで守ってみせます!」
「頼んだぞ、バルト」
レオンは短く告げると、一度も振り返ることなくタラップを駆け上がり、甲板の縁に立った。
「出航!」
シェラの合図とともに重厚な錨が引き揚げられ、大きな白い帆が北風を孕んで大きく膨らんだ。アルティザン号の巨大な船体が、滑るように港の氷面を離れていく。
「シェフーーー! エレナ! シェラさん! ありがとなーーーーっ!」
桟橋の端まで走ってきたバルトが、千切れんばかりに両手を振り、声を枯らして叫んでいた。横に立つミルカが、そんなバルトの腰をそっと支えながら、笑顔で船を見送っている。
バルトは鼻を盛大にすすると、すぐさま新屋台の薪に火打ち石で火をつけた。
ゴッと音を立てて赤い炎が立ち上り、特注の石焼きプレートが熱を帯びていく。香ばしい豚肉と発酵味噌、スパイスのアロマが、朝もやの港町へと広がっていった。
「さあ食ってくれ! ノースヴェイル特製、熱々石焼き煮込みパンだ! 一口食えば寒さなんて吹っ飛ぶぜ!」
バルトの威勢の良い声と、押し寄せる労働者たちの活気が、遠ざかるアルティザン号の甲板まで届いていた。
レオンは遠ざかるノースヴェイルの港町と、そこに灯った確かな火種を静かに見つめ、ゆっくりと面舵へと視線を向けた。
アルティザン号は再び、未知なる食と冒険が待つ次なる海原へと進路を取っていた。




