第30話 揺れる視線
寒風が吹き抜ける大通りを外れ、石造りの建物がひしめき合う細い路地を抜け出た先に、ギドの営む食堂『冬の灯火亭』はひっそりと暖簾を掲げていた。
使い込まれた重厚な木製ドアを開けると、薪ストーブのほのかな温もりと、長年染みついたスープの香りが鼻腔をくすぐる。店内に飾られた装飾は素朴だが、拭き上げられたテーブルには長年の丁寧な仕事ぶりが伺えた。
「さあ、入ってくれ。何もない店だが、風を凌ぐくらいはできる」
ギドに促され、レオンとバルト、シェラ、そしてアルティザン号の整備と船内管理を終えて合流したエレナが席に着く。エレナは店内を見回しながら、冷え切った指先を軽く擦り合わせた。
「静かで落ち着いたお店ね。でも……市場の活気に比べると、少し食材の匂いが薄い気がするけれど」
エレナの観察眼に、ギドは苦笑いを浮かべながら、黒ずんだ木製ピッチャーから温かい麦茶を大コップに注ぎ分けた。
「相変わらず鋭いお嬢さんだ。……そうなんだよ。これがワシがあんた方に話したかった、この街の『病み』の部分だ」
ギドは重々しく腰を下ろすと、声を少し潜めて語り始めた。
「このノースヴェイルは、食糧商工ギルドの連中が市場の物流を完全に握っている。まともな家畜の肉や穀物、質のいい薪や塩は、すべて奴らが優先的に買い占め、高値で大商人やギルド直営の高級店に流す仕組みになっているのさ。ワシらのような裏通りの小店や安屋台には、硬くて臭みの強い雑多な肉や、質の悪い塩しか回ってこねえ」
「なるほどね……。だから市場の労働者たちは、硬いパンと旨味のないスープで凍えながら腹を満たすしかなかったわけだ」
エレナが納得したように頷き、レオンも静かに目を細めた。
「素材の流通を抑えられれば、料理人がどれだけ腕を磨いても打つ手がなくなる。だからこそ、みんな諦めていたんだな」
「そういうことだ。だが、あんた方はダンジョンの氷鱗トカゲや霜降り茸なんていう、誰も見向きもしねえ……いや、扱いかねていた素材を、驚くべき技術で極上のタルト・サレに変えてみせた。あの商工ギルドの独占を打ち破る鍵は、あんた方の料理にあると確信したのさ」
ギドが力強く語る言葉に、一同が思案を巡らせていたその時、厨房の奥の扉が静かに開いた。
「父さん、お茶のお代わり持ってきたよ」
お盆に湯気の立つ鉄瓶を乗せて現れたのは、質素なエプロンを身につけた若い女性だった。少し赤らんだ頬と、芯の強さを感じさせる澄んだ瞳。控えめだが、どこか暖炉の火のような温かみのある佇まいをしたギドの娘、ミルカだった。
「おお、ミルカ。こちらが昼間の屋台で街を騒がせた『アルティザン号』のご一行だ」
「初めまして。父から話は聞いています……本当に凄いお料理だったって」
ミルカが少し恥ずかしそうに頭を下げ、コップへ丁寧にお茶を注ぎ足していく。
その瞬間だった。
「あ、いや……どうも! 俺はバルト! 船の操舵と……あー、力仕事担当だ!」
普段なら豪快に笑い飛ばすはずのバルトが、急に椅子から跳ね起きるようにして声を張り上げた。ミルカと視線がぶつかると、バルトの大きな顔が耳の先端まで一気に真っ赤に染まっていく。
「……あら?」
エレナがその変化を逃さず、口元にいたずらっぽい笑みを浮かべてレオンとシェラに視線を送った。シェラも呆れたように肩をすくめている。
「お、大きな声出して悪かったな! 手、熱くねえか? その鉄瓶、重いだろ!」
「ふふ、大丈夫ですよ。バルトさん、力持ちなんですね」
ミルカが小さくクスリと微笑むと、バルトは完全に固まり、大きな手をどこに置けばいいのか分からずドギマギと泳がせていた。
ノースヴェイルの歪んだ流通を打ち破る新たな試みと、極寒の街で静かに芽生えた思いがけない熱量。
アルティザン号の次なる挑戦が、いま静かに動き出そうとしていた。




