第29話 職人の眼差し
完売の看板を掲げ、手際よく鉄鍋や木皿の撤収を進める屋台の傍らに、いつの間にか先ほどの老料理人が佇んでいた。
身にまとった擦り切れかけた厚手の革羽織。爪の隙間に長年の薪の煤と油がしっかりと染み込んだその無骨な手を見て、レオンは一目で彼が同業者、それも相当な修羅場と場数を踏んできた叩き上げの職人であることを察した。
「……若いの、いや、シェフとお呼びした方が正しいかな」
老人は深いシワの刻まれた目元を緩めることなく、静かに踏みしめる雪を踏み鳴らして足元へ歩み寄ってきた。
「ワシはこの街の市場裏で何十年も食堂を貼っているギドという者だ。差し出がましいとは思いつつも、どうしてもひとつ聞かせてほしい。この極寒の空洞で、どうやってあの動物油脂特有の重さを殺し、パイの生地に驚くほどのサクサクとした軽さを維持させた? まさか、温熱の魔導具や魔法でも隠し持っているわけではあるまいな?」
バルトが警戒するように少し身を乗り出したが、レオンはそれを静かに手で制し、研ぎ澄まされた愛用の包丁を綺麗な布巾で丁寧に拭いながら、まっすぐギドの目を見返した。
「魔法も特殊な道具も一切使っていない。使ったのは、氷鱗洞窟の深層に生息する『氷鱗トカゲ』の不飽和脂肪酸だ」
「……不飽和、脂肪酸……?」
聞き慣れない異国の概念に、ギドが怪訝そうに極太の眉をひそめる。
「トカゲの体内に蓄えられた特殊な油脂は、氷点下に晒されても白く固まらない性質を持っている。それをノースヴェイル特有の強い風味を持つ発酵バターと合わせ、冷水を使って生地のグルテンを締めすぎない絶妙な温度と配合で手早く練り込んだ。ソースも同様だ。茸の出汁と合わせて手作業で強く攪拌し、不飽和脂肪酸を完全に乳化させている。だから冷気に当たっても固まらず、サラリとした軽快な口当たりがどこまでも持続する」
レオンの手元から淡々と語られるのは、魔力という曖昧な奇跡に依存しない、純粋な物理化学の法則と食材の理に基づく確固たる調理理論だった。
ギドはゴクリと生唾を呑み込み、白く濁った息を吐き出しながら唇を小さく震わせた。
「……素材の持つ融点の差を正確に見抜き、包丁ひとつの技量と火加減だけで、この極寒の理を真っ向から覆したというのか。魔法の冷気箱や温熱機具に頼るしか能のない、都市の気取った料理人どもが聞けば泡を吹いて倒れるぞ」
「俺は『料理人』だ。料理人として、恥じない仕事をしたまでに過ぎない」
レオンの迷いのない静かな言葉に、ギドはハッと短く息を吐き出すと、職人としての敬意を込め、深々と頭を下げた。
「参った。このノースヴェイルの寒さに甘え、客の胃袋を芯から温めることすら諦めていたワシの甘さを痛感したよ。……シェフ、もしよければワシの店に寄っていかないか? 市場の裏の仕入れルートや、この街の根深い食材の偏り、ギルドの動向について、あんた方に役立つ話ができる」
職人同士の研ぎ澄まされた視線が交差する。レオンは僅かに口元を緩め、静かに頷いた。
「ありがたい。ノースヴェイルの胃袋を完全に掴むには、地元の確かな目利きの手が必要だ」
街角の熱狂は一時の噂にとどまらず、ノースヴェイルの食の基盤そのものを揺り動かす確かな手応えへと変わり始めていた。




