第13話 熱帯の悩みと門前市
翡翠大甲蟹の宴から一夜が明けた。サン・ロザリアの港は、いつもと変わらず潮の匂いと湿り気を含んだ熱風に包まれていた。
『アルティザン号』の甲板で、早朝の爽やかな空気の中で包丁の手入れを進めていたレオンは、ふとタラップの足元から視線を感じて顔を上げた。
木造の埠頭には、地元の貧しい漁師や街の屋台店主たちが十数人も集まり、こちらの船を遠巻きにうかがっている。ひそひそと何かを囁き合いながらも、視線にはどこか遠慮がちな焦りが混ざっていた。
「……なんだ、朝からずいぶん人が集まってるな」
甲板に出てきたバルトが、大あくびを噛み殺しながら首をひねる。
すると集団の中から一人、顔馴染みの屋台店主、レオンから仕入れたハーブ香る魚のポワレを買ってくれたおやじが、意を決したようにタラップを登ってきた。
「おい、レオンの旦那……! 朝早くからすまねえが、一つ確かめさせてくれ」
「ん? どうしたんだ」
「昨日、あの『巨樹の迷宮』の最深部から巨蟹を持ち帰って、船の上で絶品のカニ料理を作ったってのは本当かい……? いま市場じゃその話で持ちきりなんだよ」
おやじの背後で、他の漁師や店主たちもゴクリと生唾を飲み込みながら、大きく頷いている。
どうやら昨夜、甲板から風に乗って港へ漂った香ばしい匂気と、バルトたちが市場で話した話が尾ひれをつけて一気に広まったらしい。だが、彼らの表情は単なる野次馬の好奇心ではなく、切実な悩みを抱えた切迫感があった。
「旦那……頼むから教えてくれねえか。どうやってあの暑い迷宮から、獲物を腐らせずに港まで持ち帰ってきたんだ?」
おやじは声をひそめ、縋りつくような目つきで尋ねてきた。
「俺たちこの港の人間はよ、昔からこの南国の暑さにずっと泣かされてるんだ。本国の方じゃ『保冷箱』とかいう冷たい魔法の箱が出回り始めたらしいが、そんなもん高すぎて俺たち庶民にゃ一生かかったって買えねえ。氷だって金持ちの道楽だ。せっかく命がけで獲ってきた魚や肉も、市場に並べる頃にはあっという間に痛んじまう……結局、安く買い叩かれるか捨てちまうしかないんだよ」
埠頭に立つ日焼けした漁師たちからも、溜め息混じりのつぶやきが漏れ聞こえる。
「保冷箱さえあればっていつも思うが、あれは大きな商船か貴族の持ち物だろ……」
「手に入りさえすれば、まともな鮮度で売って家で待つガキに美味いもん食わせてやれるんだがな」
南国特有の強烈な日差しと湿気。そして、高価な魔導具に手の届かない庶民のリアルな生活の壁。
彼らの切実な語りに耳を傾けていたレオンは、腕を組み、静かに思考を巡らせた。
(なるほどな。冷やせないなら、冷やさずに腐らせない工夫をすればいい)
現代の厨房でも、電気が通り冷蔵庫が当たり前になる前の時代から、職人たちは知恵を絞って食材を保存してきた。油の中で低温加熱して空気を遮断するコンフィ、塩分濃度を絶妙にコントロールする塩漬け、酸や燻煙を活用した防腐処理、そして発酵による魚醤化。
冷却だけが、食材の価値と命を守る手段ではないのだ。
「……肉や魚を傷ませず、むしろ前より美味しくして長持ちさせるやり方はあるぞ」
レオンがぽつりと呟いた言葉に、それまでざわついていた埠頭全体がしんと静まり返った。
「な、なんだって……!?」
「冷やさずに……長持ちさせるだと?」
目を丸くするおやじと、信じられないという顔で見上げてくる人々を見渡し、レオンは決意を込めて言葉を重ねた。
「ああ。良ければ今から、ここでそのやり方を教えてやろうか?」




