第八話:皇太子の密書と、美味しい結界
教会の使者をレオンが力ずくで追い返してから、わずか三日後。
王都の教会は、さっそく陰湿な報復を仕掛けてきた。
「隊長、王都の教会派の商人どもから、今月分の食料と防具の補給を全面停止すると通達がありました。教会の決定に背く逆賊の砦には、麦一粒すら売らんとのことです」
副隊長のギルバートが、険しい顔で報告する。
国境の砦は元々土地が痩せており、作物が育たない。王都からの定期的な補給が止まるということは、前線の兵士三千人が干からびることを意味していた。教会は、武力ではなく兵糧攻めでスミレを諦めさせようとしているのだ。
「浅ましい真似を……」
レオンが不快そうに眉をひそめた、その時だった。
アトリエの窓をコツコツと叩く音がした。見ると、トトの連れてきた一羽の渡り鳥が、足に小さな筒を括り付けている。
「隊長、これ! 王宮の隠密が使う伝書鳥です!」
トトが差し出してきた筒の中から出てきたのは、金箔ではなく、実用的な高級羊皮紙に書かれた密書だった。そこには、現在の国王の代理として国政を執り行う、第一皇太子アルベルトの直筆のサインが刻まれていた。
『レオン、よくぞ教会の横暴を撥ね退けた。現在、王宮は教会の財政不正と独占権力を切り崩すための証拠を集めている。あえて奴らの暴挙を泳がせているため、表立って守備隊を援護できん不義理を許してほしい。代わりに、この手紙を持ってきた隠密に、当面の軍資金と最高級の画材を運ばせた。スミレ殿には、どうかその素晴らしい筆を振るい続けてほしいと伝えてくれ。必ず、近いうちに王宮の法廷で決着をつける。――アルベルト』
「皇太子殿下……」
レオンが驚きに目を見張る。王族もまた、教会の暴走を快く思っておらず、スミレという「本物の奇跡」を、教会を失脚させるための最大のカードとして期待し、裏で守ろうとしてくれていたのだ。
密書と一緒にアトリエに運び込まれたのは、王室御用達の最高級の絵の具と、見たこともないほど滑らかな最高級のカンバス。
「王族の方まで、私を応援してくれている……」
画材に触れた瞬間、私の胸の奥にフツフツと創作意欲が湧き上がってきた。
締め切りに追われて泣いていた頃の私じゃない。今は、私を道具としてではなく、一人の『絵師』としてリスペクトし、命を懸けて守ってくれる人たちがいる。
「食料がないなら、作ればいいじゃない。……私、イラストレーターですから」
私が不敵に笑うと、レオンとギルバートが呆然とした顔で私を見た。
私はさっそく、皇太子から届いた極上の画材を広げ、筆を握った。
イメージするのは、過酷な前線での戦いを癒やす、圧倒的に美味しくて栄養満点のご飯。そして、どんな寒冷地でも果物や野菜が実り続ける、常春の温室のような大地。
東京のファミレスで、頼みもしないのに「もっとシズル感(美味しそうな質感)を出して!」と無茶振りしてきたクソクライアント(※当時の元担当者)の顔を思い浮かべる。
あの時の厳しい特訓が、今、異世界の聖画として結実するのだ。
(これでもかってくらい、美味しそうに描いてやる……!)
焼きたてのふっくらとした肉厚のパン。ジューシーな肉汁が溢れる香草焼き。もぎたてのトマトや甘い果実。それらが、砦の空き地一面に広がる農園で次々と収穫される光景を、極限の「シズル感」を込めてキャンバスに定着させていく。
一晩中、時間を忘れて描き続け、最後のハイライトを塗り終えた瞬間。
――オオオオオオオオン!
地響きのような優しいゴールドの魔力光が、カンバスから溢れ出し、砦の裏手にある広大な荒れ地へと流れていった。
「な、なんだこれは……!? 寒風が吹き荒れる国境のはずなのに、裏庭が温かい……!?」
ギルバートたちが慌てて裏庭へ走っていく。
私もレオンと一緒に向かうと、そこには驚天動地の光景が広がっていた。
ついさっきまで、ただのゴツゴツとした岩場だった荒れ地が、今や青々と茂る極上の黒土へと変わり、そこには私の絵に描いた通りの、丸々と実ったトマトや小麦、甘い果実の木々が、一瞬にして大豊作のグラフィックのように実り乱れていたのだ。
それだけではない。中央に建てられた臨時の調理場からは、なぜか「絵に描いた通りの、一番美味しい状態」の焼き立てのパンと肉料理が、湯気を立てて無限に生み出されていた。
「す、スミレ殿……! これは、土地の概念そのものを『豊穣の結界』で上書きしたのか……!? 補給なんて、もう一生要らねえぞこれ!」
ギルバートがトマトを丸かじりし、そのあまりの美味さに涙を流している。
「嘘でしょう……。この食べ物、微弱な聖属性の魔力が含まれてるわ。毎日これを食べていたら、病気どころか、魔獣の呪毒に対する完璧な免疫ができるわよ……!」
医術師のミレイアも、スープを一口飲んで驚愕に目を見張っていた。
普通の聖女の魔法は、ただその場の空気を浄化するだけ。
しかし、スミレの『絵師』のスキルは、描いた理想の環境を、絵がそこにある限り「永久にセーブデータのように固定する」という、国家の安全保障を根本から引っくり返す神の領域の力だった。
「スミレ……君は、本当に……」
レオンは、豊かな実りの中で満面の笑みを浮かべる私を見て、胸がいっぱいになったように私を強く抱きしめた。その腕の力強さと、彼の体温に、私の顔は豊作のトマトよりも真っ赤に染まる。
「砦の全員を自給自足させ、教会の兵糧攻めを完全に無力化するとはな。アルベルト殿下が見たら、腰を抜かすだろう」
レオンは愛おしそうに私の髪を撫で、それから、遥か王都の方角を見据えて冷たく微笑んだ。
「さて……これで我々は、一切の憂いなく王都を干上がらせることができるな」
国境がこれ以上ないほど豊かになる一方で、守備隊を見捨て、スミレを害そうとした王都の教会には、徐々に魔獣の微細な呪毒が蓄積し、破滅へのカウントダウンが始まろうとしていた。




