第五話:初めてのアトリエと、異世界の色彩
黒鉄の砦に到着した翌朝。
私は、レオンが用意してくれた最上階のアトリエで、まばゆい朝日に目を覚ました。
三方の大きなガラス窓から差し込む光は、チリ一つないほど澄んでいる。東京の狭いワンルームで、遮光カーテンを閉め切って液晶タブレットに向かっていた頃とは、まるで別世界だ。
「よし……っ、今日からここが私の仕事場だ!」
私は机に向かい、トトが命懸けで集めてくれたという画材を改めて検分した。
魔力を帯びた白い羊皮紙。そして、小瓶に入った色鮮やかな絵の具たち。赤、青、黄色――どれも地球のそれとは違い、光の当たり方で微かにキラキラと輝いている。
コト、と静かにドアがノックされ、お盆を持ったレオンが入ってきた。
「おはよう、スミレ。よく眠れたか? 砦の不恰好なパンとスープだが、朝食を持ってこさせた」
「レオンさん! わざわざありがとうございます」
スープからは、温かい湯気と一緒にハーブの良い香りが漂っている。
レオンは食事を机に置くと、ずらりと並んだ画材を見て、少し申し訳なさそうに眉を下げた。
「……王宮の神官どもは、君の能力を『戦闘に役立たないハズレ』だと切り捨てた。彼らが必死なのは、今の王都の聖女たちが皆、血統ばかりで実力の伴わない『お飾り』だからだ」
レオンは窓の外、遠く広がる国境の険しい山脈を見つめる。
「神殿の聖女たちの力は年々衰退している。前線の魔獣の呪毒を浄化することもできず、無能がバレるのを恐れて王都に引きこもっているのが現状だ。だからこそ、奴らは焦って君を異世界から強制召喚した。……それなのに、君の職業が『絵師』だと分かった瞬間、魔法を直接放てない無能だと決めつけ、あの物置に放り込んだんだ」
レオンの青い瞳に、王都の教会に対する強い怒りが宿る。
だけど、彼はすぐに私に向き直ると、ふっと表情を和らげた。
「だが、私は知っている。君の絵には、どんな高位聖女の魔法よりも清らかな力が宿っている。だからスミレ、ここでは義務や脅迫で描く必要はない。君が描きたいものを、自由に描いてくれ」
「描きたいもの、ですか……」
私は温かいスープをスプーンで掬いながら、アトリエの窓から見える砦の様子を眺めた。
広場では、ギルバートたちが朝早くから訓練に励んでいる。でも、みんなの着ている鎧はどこか煤けていて、砦の建物自体も、長年の戦いで壁がひび割れ、少し寒々しい印象だ。
(みんな、私の絵に命を救われたって、あんなに喜んでくれた。……よし)
「レオンさん。私、この砦のみんなが、少しでも快適に、元気に過ごせるような絵を描いてみたいです」
「砦の環境を……? ああ、君がそう望むなら、どんな絵でも歓迎するよ」
レオンが嬉しそうに微笑み、私の邪魔をしないように静かに部屋を後にした。
一人になった私は、大きく深呼吸をして筆を握る。
まずは、トトが買ってきてくれた「青い魔石の粉」が混ざった絵の具をパレットに出した。筆に含ませた瞬間、指先からじわりと心地いい温かさが伝わってくる。
(イメージするのは、疲れた体を芯から温めてくれる、優しい光の祝福――)
羊皮紙の上に筆を滑らせる。
日本のデジタルイラストとは違い、やり直しは効かない。だけど、この世界の画材は、私の「こうしたい」というイメージを驚くほど素直に吸い上げてくれた。
描いたのは、砦の中央広場を包み込むような、巨大な「癒やしの泉」と、そこに降り注ぐ暖かな陽だまりのイラスト。
数時間、時間を忘れて没頭し、最後のハイライトを筆で描き入れた、その瞬間。
――フワッ。
アトリエの床から、淡いブルーの光の粒子が立ち上った。
それと同時に、窓の外から「うおおおおっ!?」という、ギルバートたちの凄まじい大歓声が響き渡る。
「な、何ごと!?」
慌てて窓から広場を見下ろした私は、自分の目を疑った。
何もないはずの広場の中心に、今、私が絵に描いた通りの、透き通った青い水をたたえる美しい泉がこんこんと湧き出ていたのだ。そこから放たれる柔らかな光が砦全体を包み込み、冷え切っていた石壁のひび割れが、みるみるうちに綺麗な元の姿へと修復されていく。
「隊長! 隊長、大変です! 広場に、見たこともない高純度の聖水が湧き出ました!」
トトが犬耳を激しく揺らしながらアトリエに飛び込んでくる。
そのすぐ後ろから、レオンも驚愕の表情で駆け込んできた。
「スミレ……君は一体、どれほどの奇跡を起こせば気が済むんだ……」
呆然とするレオンの前で、私が描き終えた羊皮紙の絵は、今も静かに優しい光を放ち続けている。普通の聖女の魔法は使えば消える。だけど私の絵は、ここに置いてある限り、永久にその効果を発揮し続けるのだ。
「これなら……みんなの怪我もすぐ治るし、お風呂にも困りませんね!」
私が満面の笑みで言うと、レオンは耳まで真っ赤に染め上げ、言葉を失ったように私を見つめた。そして、愛おしさを堪えきれないといった様子で、私の手をそっと包み込んだ。
「君は、我が守備隊の最高の宝だ。……絶対に、誰にも渡さない」
彼の力強い言葉に、今度は私の心臓が、跳ねるように高鳴り始めていた。




