第二話:スミレの絵筆と、騎士の誓い
「スミレ……。それが君の名か」
金髪の騎士レオンは、私の名――灰屋 菫という響きを確かめるように、低く優しい声で呟いた。
「はい。日本ではイラストレーター……つまり、絵を描く仕事をしていました。聖女じゃなくて、ただの『絵師』です」
私が自嘲気味に言うと、レオンは真剣な青い瞳でまっすぐに見つめ返してきた。
「とんでもない。神官たちの鑑定などあてにならない。現に、君の描いた絵が私の傷を完全に癒やした。しかも、これはただの治癒ではない。魔獣の呪毒ごと一瞬で消し去るなど、教会の高位聖女でも不可能な、紛れもない奇跡だ」
彼は私の手元にある、煤けたパレットと羊皮紙に目を落とす。
「スミレ、不躾な願いだとは分かっている。だが、遠く国境で戦う私の部下たちを救うために、もう一枚、絵を描いてはもらえないだろうか」
レオンの話によると、王都から遥か数日分の距離にある国境守備隊は、日々活発化する魔獣との戦闘で疲弊しているらしい。それなのに神殿の聖女たちは、王都の貴族たちの小さな擦り傷ばかりを熱心に治療し、前線で命を懸ける兵士たちの治癒の願いを「薄汚い」と一蹴したのだという。
「私の描いた絵で、その人たちが助かるなら……。やってみます」
私は頷き、再び古びた筆を握った。
今度はレオンの怪我を癒やした「光」のイメージを、さらに強く頭に思い描く。
不思議なことに、この世界で絵を描いていると、自分の指先から温かい何かが絵の具に溶け込んでいくような感覚があった。東京で締め切りに追われていた時は、いつも孤独で、胃が痛むようなプレッシャーばかりだった。だけど今は、不思議と心地いい緊張感に満ちている。
レオンは静かに、私の邪魔をしないよう、だが私を脅かすものから守るように、ずっと傍らに立ち続けてくれた。
――よし、できた。
数時間後、羊皮紙の上に描かれたのは、傷ついた人々を包み込むような、温かい琥珀色の結界の絵だった。
「これは……」
レオンが息を呑む。
私が描き終えた瞬間、絵全体が眩い光を放ち、部屋の埃っぽい空気が一気に清浄なものへと変わった。それどころか、ただの羊皮紙だったはずの絵から、物理的な熱量を持った魔力の障壁が立ち上っているのが目に見えて分かった。
「スミレ、この絵を借りてもいいか? これがあれば、前線の砦を守り抜けるかもしれない」
「ええ、もちろんです。みんなの役に立ててください」
レオンは絵を壊れ物を扱うように大切そうに抱え、懐から一粒の、ひび割れた青い魔石を取り出した。
「守備隊に代々伝わる、一度きりの緊急帰還用の転移魔石だ。これを使えば、一瞬で国境の砦まで戻れる。……スミレ、君をこの薄暗い部屋に放置した男たちを見返してやる。必ず君の価値を証明してみせるから、それまでどうかここで待っていてほしい」
そう言い残し、彼は魔石を砕いた。激しい光の渦とともに、彼は一瞬にして部屋から掻き消えた。
一人残された私は、自分の手を見る。少し絵の具で汚れた指先。
数日間の旅路を省いてまで、私の絵を、そして前線の命を救うために戦いへと戻った騎士。
その不器用なまでの真っ直ぐさが、冷え切っていた私の心を、じんわりと温めていくのを感じていた。




