明日も
第九話 明日も
クロが小さく鳴いた。
保管室の静けさの中で、その声だけがやけに鮮明に聞こえた。
私はまだ紙を持ったままだった。
『思い出して』
たった五文字だった。
文字は丸かった。
小学生が書いたような、少し不器用な字。
私の字ではなかった。
でも、知らない字でもなかった。
見たことがある。
そんな気がした。
私は紙を裏返した。
何も書かれていない。
白かった。
ただ、それだけだった。
「……何なんだよ」
呟いた声は、思っていたより小さかった。
返事はない。
私は顔を上げた。
保管室の奥を見た。
長髪の子はいなくなっていた。
さっきまで確かにそこにいた。
机の横に立っていた。
でも今は何もない。
机とノートだけが残っていた。
私は辺りを見回した。
棚。
ロッカー。
積まれた段ボール。
誰もいない。
それなのに、誰かが少し前までそこにいた気配だけが残っていた。
人が座っていた椅子がまだ温かい時みたいな感覚だった。
クロは机へ飛び乗った。
そして前足でノートを叩く。
一回。
二回。
私はため息を吐いた。
「……分かったよ」
机へ近付く。
さっき閉じたはずのノートが、少し開いていた。
私は眉をひそめた。
自分で閉じたはずだった。
でも今は違う。
数ページほど開いている。
私はゆっくりページをめくった。
五月二日
今日は雨。
次のページ。
五月六日
今日も雨。
また次。
五月九日
また雨だった。
私は手を止めた。
おかしかった。
全部、雨だった。
毎日じゃない。
でもページをめくるたび、雨の日ばかりが出てくる。
私はさらに先へ進めた。
すると急に文字が増えた。
五月十四日
今日は一緒に帰った。
途中で犬がいた。
怖いって言ってた。
笑った。
私は眉をひそめた。
「……誰が?」
誰が怖がった。
誰が笑った。
そこだけが抜けていた。
まるで最初からそこだけ消えているみたいだった。
ページをめくる。
五月十七日
今日は転んだ。
でも笑ってた。
五月二十一日
今日は傘を忘れてた。
五月二十四日
今日は――
そこで止まっていた。
その先がなかった。
いや、正確には違った。
黒かった。
紙が塗り潰されていた。
何度も。
何度も。
強く。
紙が破れそうなくらい。
私は息を止めた。
見ているだけで嫌な感じがした。
普通じゃなかった。
怒って消したんじゃない。
隠したんだ。
見たくないものを。
私はゆっくり指で黒い部分へ触れた。
その瞬間だった。
雨音が聞こえた。
ザー……
保管室の中だった。
私は顔を上げる。
天井は変わっていない。
窓もない。
でも聞こえる。
ザー……
ザー……
そして。
頭の奥で声がした。
『明日も、一緒に帰ろ』
私は固まった。
知らない。
知らないはずだった。
でも胸が痛かった。
懐かしいとか、悲しいとか、そういう感情じゃなかった。
もっと曖昧だった。
あと少しで思い出せそうなのに、思い出せない時の苦しさだった。
クロが突然毛を逆立てた。
私は振り返る。
保管室の入口に誰かが立っていた。
顔のない生徒だった。
教室にいた奴ら。
一人じゃない。
二人。
三人。
いつの間にか増えていた。
全員、こちらを向いている。
何も言わない。
動かない。
ただ立っている。
そして。
一人がゆっくり腕を上げた。
指差していた。
私ではない。
私の後ろだった。
私はゆっくり振り返った。
机の上にあったノートが、勝手に開いていた。
そしてページの中央に、新しい文字が浮かんでいた。
『何で忘れたの?』
第九話 明日も 終




