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何で忘れたの?

第十話 何で忘れたの?


私はその文字を見つめたまま動けなかった。


『何で忘れたの?』


黒い鉛筆で書いたような文字だった。


乱暴に書いたわけではない。


怒っているようにも見えない。


むしろ丁寧だった。


だから余計に嫌だった。


感情が分からなかった。


怒っているのか。


悲しんでいるのか。


責めているのか。


何も分からない。


私はゆっくりノートへ手を伸ばした。


指先が少し震えていた。


何故だろう。


ただ文字が書いてあるだけなのに、触れてはいけないものに触る感じがした。


クロが机の上へ飛び乗った。


そして私の手の上へ前足を置いた。


止めているみたいだった。


私は苦笑する。


「……大丈夫だって」


そう言ったが、自分でも全然大丈夫じゃないことは分かっていた。


クロは私を見た。


それから小さく鳴く。


私は少しだけ息を吐いて、ページに触れた。


その瞬間だった。


ザーッ——


耳の奥で雨音が大きくなった。


保管室が消えた。


視界が揺れる。


足元がふわりと浮く。


私は思わず目を閉じた。


次に目を開けた時、そこは保管室ではなかった。


校門だった。


私は立ち尽くしていた。


灰色の空。


降り続ける雨。


アスファルトへ落ちる雨粒。


水たまり。


ランドセルを背負った小学生たちが、傘を差しながら校門を出ていく。


笑いながら。


走りながら。


誰かを待ちながら。


私は呆然と周りを見た。


「……何だよ、ここ」


見覚えがあった。


当然だった。


ここはさっきの学校だった。


でも違う。


さっきまでの学校は静かだった。


今は人がいる。


音がある。


話し声がある。


生きている感じがした。


私はゆっくり歩いた。


誰も私を見ない。


私の横を通り過ぎていく。


肩もぶつからない。


まるで私は存在していないみたいだった。


その時だった。


クロが走り出した。


校門の横へ。


私は慌てて追いかけた。


クロは立ち止まっていた。


そして前足で地面を叩いている。


私は視線を落とした。


そこにいた。


小学生の私だった。


ランドセルを背負っている。


青いキーホルダー。


少し擦れた肩紐。


窓の向こうにいた子だった。


私は息を止めた。


小学生の私は校門の近くで立っていた。


帰らない。


ずっと同じ場所にいた。


誰かを待っているみたいだった。


五分。


十分。


時間の感覚は分からない。


でも、かなり長かった。


周囲の子供たちはどんどん帰っていく。


人数が減っていく。


雨だけは止まない。


私はその背中を見ていた。


何となく分かってしまった。


待っているんだ。


誰かを。


その時だった。


後ろから声がした。


「待った?」


私は身体を強張らせた。


小学生の私が振り返る。


私も振り返った。


白い傘だった。


長い黒髪。


雨で少し濡れていた。


顔はまだ見えない。


でも今までと違った。


怖くなかった。


そこにいたのは怪物なんかじゃなかった。


ただの子供だった。


その子は少し息を切らしていた。


そして笑った。


「ごめん。日直だった」


小学生の私は首を振った。


「別に」


そう言った。


でも、少しだけ嬉しそうだった。


私は動けなかった。


何故だろう。


胸の奥が痛かった。


頭では分からない。


でも心だけが先に理解していた。


私は、この子を知っている。


絶対に知っている。


雨音だけが、静かに鳴っていた。


第十話 何で忘れたの? 終

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