忘れ物保管室
第八話 忘れ物保管室
私はその場から動けなかった。
暗闇の奥。
長い黒髪の子は、そこに立っていた。
何も言わない。
何もしない。
ただ、こちらを見ていた。
胸元には白い名札が付いている。
けれど肝心の名前だけが、黒く塗り潰されていた。
その黒だけが妙に不自然だった。
マジックで消したようにも見えるし、最初からそこだけ空いていたようにも見える。
輪郭が曖昧だった。
まるで、思い出そうとするとぼやける記憶みたいだった。
クロが私の足元へ戻ってきた。
小さく鳴く。
私はゆっくり息を吐いた。
そして一歩、中へ入った。
忘れ物保管室は思ったより広かった。
学校にこんな場所があった記憶はない。
傘立て。
棚。
ロッカー。
段ボール箱。
雑然としているのに、どこか整っていた。
長い間、人の手が入っていないような空気だった。
埃っぽい。
けれど不思議なことに、床には埃が積もっていなかった。
誰かが歩いているみたいだった。
私は近くの棚へ目を向けた。
青い水筒。
赤い上履き袋。
黄色い帽子。
体操服。
全部普通だった。
小学校によくある忘れ物。
なのに、見ているうちに少しずつ違和感が生まれる。
私は水筒を手に取った。
名前シールが貼ってある。
でも名前の部分だけ黒く塗り潰されていた。
隣の上履き袋も同じだった。
帽子も。
ノートも。
全部。
名前だけが消えていた。
私は眉をひそめる。
何となく嫌な感じがした。
名前がないというだけで、急に持ち主の存在が薄くなる。
水筒なのに、誰のものか分からない。
帽子なのに、誰が被っていたのか分からない。
名前が消えただけなのに、その人自身まで消えてしまったみたいだった。
私は小さく呟いた。
「……誰の物か分からないじゃないか」
返事はなかった。
静かだった。
その時だった。
カタン。
音がした。
私は顔を上げる。
長髪の子だった。
棚の奥へ歩いている。
足音はしない。
白い服の裾だけが少し揺れていた。
そして振り返る。
また手招きしていた。
今度は変じゃなかった。
ちゃんと手のひらをこちらへ向けていた。
私は少しだけ安心した。
安心した理由は自分でも分からない。
ただ、さっきまでの気味の悪さが少し薄れていた。
私は後を追った。
棚の間を抜ける。
奥へ。
もっと奥へ。
気付けばクロもついてきていた。
保管室の一番奥。
そこには古い机が一つだけ置かれていた。
教室にあるような机だった。
上にはノートが置いてある。
薄い青色の表紙。
端が少し折れていた。
私は見覚えがある気がした。
何故だろう。
まだ触っていないのに。
私はゆっくり手を伸ばした。
ノートを開く。
最初のページ。
幼い字だった。
少し丸い文字。
ところどころ歪んでいる。
四月十二日
今日は雨だった。
一緒に帰った。
途中で転びそうになって笑った。
私はページをめくる。
四月十五日
また雨だった。
一緒に帰った。
傘を忘れていた。
ページをめくる。
四月十八日
今日も一緒に帰った。
私は手を止めた。
妙だった。
全部同じだった。
全部。
「一緒に帰った」
だけだった。
相手の名前がない。
何を話したのかもない。
何をしたのかもない。
ただそれだけ。
私は次のページを開いた。
そこで指が止まった。
ページの半分が黒く塗り潰されていた。
強く。
何度も何度も。
紙が破れそうなくらい。
その下に、一行だけ文字が残っていた。
『明日も』
そこから先が消えていた。
私は呼吸を忘れた。
その瞬間だった。
頭の奥が痛んだ。
雨の音。
白い傘。
校門。
ランドセル。
誰かが笑っている。
『ねぇ』
声がした。
知らないはずの声だった。
でも胸の奥だけが知っていた。
『明日も、一緒に帰ろ』
私は顔を上げた。
長髪の子は、もうそこにはいなかった。
代わりに机の上へ、一枚の紙が置かれていた。
さっきまでなかった紙。
私は震える手で拾った。
そこには、たった一言だけ書かれていた。
『思い出して』
クロが、小さく鳴いた。
第八話 忘れ物保管室 終




