雨の匂い
第六話 雨の匂い
私は動けなかった。
『○○より』
黒く塗り潰された名前。
たったそれだけだった。
たったそれだけなのに、胸の奥に小さな棘が刺さったみたいな感覚が残っていた。
思い出せそうだった。
本当にあと少しで。
喉元まで出かかっている言葉みたいに、何かが引っかかっていた。
でも届かない。
人間の記憶は案外曖昧だ。
昨日の昼に何を食べたか思い出せないくせに、十年前のどうでもいいことを急に思い出したりする。
逆に、忘れたくなかったものほど思い出せなくなることもある。
不便なものだと思う。
私は人影を見た。
近い。
さっきより明らかに近い。
でも動いたところは見ていない。
ただ気付いたら近くにいる。
その異常さにも、少しだけ慣れ始めている自分がいた。
怖いことだった。
人間は何にでも慣れる。
最初は怖かったものも、毎日見ていれば景色になる。
私は昔、上京したばかりの頃を思い出した。
夜の街が怖かった。
人の多さも、電車も、知らない言葉みたいに聞こえる会話も、全部。
でも数ヶ月もすれば、何も感じなくなった。
今では当たり前になっている。
慣れるということは、案外恐ろしい。
私はもう一度人影を見た。
白い服。
長い黒髪。
顔は見えない。
相変わらず何も喋らない。
ただ立っているだけだった。
さっきまで手招きしていた手も下ろされていた。
風が吹いた。
廊下の窓が少し揺れる。
カタ、と小さく音がした。
私は窓の外を見た。
そこで違和感に気付いた。
校庭が消えていた。
「……え?」
私は窓へ近づいた。
さっきまで校庭があった。
鉄棒も、ブランコも、サッカーゴールも。
全部あったはずだった。
でも今は違った。
窓の向こうには雨が降っていた。
灰色の空だった。
校庭もない。
体育館もない。
ただ雨だけだった。
雨が降っている。
遠くまで。
ずっと。
私は窓に触れた。
冷たかった。
ガラスの向こうを雨粒が流れていく。
変だった。
さっきまで晴れていた。
いや、そもそも時間がおかしい。
ここへ来てから空はずっと変だった。
夜だったはずなのに昼になっている。
時計も止まっていた。
私はようやく気付き始めていた。
ここは夢だからおかしいんじゃない。
ここは記憶だからおかしいんだ。
記憶は現実じゃない。
曖昧だ。
忘れたところは抜け落ちる。
覚えているところだけが残る。
だから繋がらない。
私はガラスに額を付けた。
冷たい。
するとクロが私の足元へ来た。
小さく鳴く。
「……何だよ」
クロは答えない。
もちろん答えない。
ただ廊下の先を見ていた。
私は振り返る。
そして息を止めた。
人影がいなくなっていた。
「……は?」
私は辺りを見た。
いない。
どこにも。
さっきまでそこにいた。
確かにいた。
でも消えていた。
廊下には私とクロしかいない。
静かだった。
窓の外では雨だけが降っている。
ザー……
ザー……
ザー……
その音を聞いているうちに、何故か胸がざわつき始めた。
嫌な感じだった。
懐かしい感じでもあった。
私は雨が好きではなかった。
嫌いというほどでもない。
ただ、好きではなかった。
何故だっただろう。
私は考えた。
思い出せない。
でも、思い出せそうだった。
その時だった。
雨音の中に何かが混ざった。
笑い声だった。
遠くから聞こえる。
子供の声。
私は顔を上げた。
窓の向こう。
雨の中に、誰かが立っていた。
小学生くらいの子供だった。
傘を差している。
顔は見えない。
そしてその隣に、もう一人いた。
ランドセルを背負った子供。
その子がゆっくりこちらを向いた。
私は身体が凍った。
そのランドセルは見覚えがあった。
青いキーホルダー。
少し擦れた肩紐。
間違えるはずがなかった。
私のランドセルだった。
第六話 雨の匂い 終




