手招き
第五話 手招き
長い黒髪の人影は、廊下の向こうに立っていた。
動いていない。
ただそこにいるだけだった。
廊下には午後の光が差し込んでいた。
窓枠の形に切り取られた光が床へ長く伸びている。その間を、小さな埃がゆっくり漂っていた。
静かだった。
静かすぎた。
学校という場所は、本来こんな静けさにはならない。
誰かが笑う。
誰かが走る。
遠くで先生が怒る。
どこかの教室で机を引く音がして、廊下には誰かの足音が響いている。
そういうものが必ずある。
なのに今は何もなかった。
自分の呼吸だけが聞こえる。
そして足元では、クロが低く喉を鳴らしていた。
私は人影を見た。
白い服。
長い黒髪。
顔は髪に隠れている。
背丈は私より少し低いくらいだった。
男なのか女なのかも分からない。
ただ、人間に見えた。
いや、人間に見えすぎていた。
だから逆に怖かった。
化け物ならよかった。
腕が何本もあるとか、顔がないとか、そういう分かりやすい異常があればよかった。
でもあれは違う。
普通すぎた。
普通なのに、どこかだけが狂っている。
私は理由もなくそう思った。
その時、人影がゆっくり腕を上げた。
細い腕だった。
白い袖が少し揺れる。
そして、小さく手を動かした。
来い、と言うみたいに。
私は息を止めた。
まただ。
さっきと同じだった。
手招きしている。
でも何かがおかしい。
私はしばらく見つめた。
そして気付いた。
指が逆だった。
手の甲がこちらを向いている。
手のひらじゃない。
ほんの少しの違い。
ただそれだけ。
それだけなのに、急に胸の奥が冷たくなった。
人間というものは不思議だ。
大きな異常には慣れるのに、小さな異常には耐えられない。
顔が二つある人間なんて現実感がない。
でも、指が一本だけ逆向きだったら、多分ずっと見てしまう。
それは「何かがおかしい」と分かるのに、「何がおかしいのか」がすぐ分からないからだ。
私は知らないうちに一歩下がっていた。
その瞬間、クロが私の足へ身体を押し付けてきた。
私は視線を落とす。
クロは人影を見ていた。
耳が後ろへ倒れている。
毛も少し逆立っていた。
怖がっている。
私は初めてそう思った。
ここへ来てからクロはずっと平然としていた。
私よりも、この場所を知っているみたいだった。
なのに今は違った。
私はゆっくり顔を上げた。
そして身体が固まった。
人影が近くなっていた。
「……え」
声が漏れた。
廊下の一番奥にいたはずだった。
間違いない。
でも今は違う。
いつの間にか廊下の真ん中あたりに立っていた。
私は息を止めた。
歩いていない。
足音もしていない。
私は見ていた。
ずっと見ていたはずだった。
なのに近くなっている。
意味が分からなかった。
私は目を擦った。
もう一度見る。
人影は動いていない。
ただそこに立っているだけだった。
……気のせいか?
そう思った瞬間だった。
クロが短く鳴いた。
私は反射的に視線を落とした。
本当に一瞬だった。
たった一瞬。
そしてもう一度前を見る。
人影はさらに近くにいた。
私は後ろへ下がった。
背中が冷たくなる。
心臓が嫌な鳴り方をしていた。
一回、一回が胸の奥へ落ちていくみたいだった。
頭が理解を拒否していた。
何故近付く。
どうやって近付いた。
歩いていない。
見ていた。
見ていたはずなのに。
私は人影から目を離せなくなった。
離した瞬間、また近付く気がした。
でも見続けるのも苦しかった。
息が詰まりそうだった。
すると、人影が動いた。
初めてだった。
ゆっくりと。
腕が下がる。
そしてそのまま、自分の胸元を指差した。
何も言わない。
ただ、それだけだった。
私は眉をひそめた。
胸元。
何だ。
何かあるのか。
私は目を細めた。
白い服の中央。
何か文字が書いてあった。
薄くて見えない。
私はもう少し前へ出た。
クロが小さく鳴いた。
止めているみたいだった。
でも私は止まれなかった。
あと少しで読めそうだった。
あと少し。
本当にあと少しだった。
私は目を凝らした。
そして読んだ。
そこには小さな文字で、
『○○より』
と書いてあった。
名前だけが、黒く塗り潰されていた。
その瞬間だった。
頭の奥で何かが弾けた。
雨の音。
ランドセル。
教室。
窓を叩く雨粒。
そして誰かの声。
『ねぇ、一緒に帰ろ』
私はその場で立ち尽くした。
知らない。
知らないはずだった。
なのに胸の奥だけが、その声を知っていた。
人影は動かない。
ただ静かに立っていた。
まるで。
私が思い出すのを待っているみたいに。
第五話 手招き 終




