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窓際の席

第三話 窓際の席


私は教室の扉の前に立ったまま、しばらく動けなかった。


後ろを振り返れば、暗い廊下が続いている。


前を向けば、顔のない生徒たちがいる教室。


どちらも行きたい場所ではなかった。


だからと言って、その場に立ち尽くしていることもできない気がした。


人間は不思議なものだ。


本当に怖いものを前にすると逃げたくなるくせに、同時に確かめたくもなる。


熱いものに指を近づけるみたいに。


傷口を舌で触ってしまうみたいに。


怖いなら見なければいい。


けれど、見ないという選択肢を取れるほど、人間は賢くできていない。


私は小さく息を吐いた。


そして、教室へ足を踏み入れた。


ギシ、と床が鳴った。


その音だけが妙に大きく聞こえた。


教室の空気は少し冷たかった。


窓は閉まっている。


なのに風が流れている気がする。


私は何となく鼻を動かした。


匂いがした。


懐かしい匂いだった。


小学校には独特の匂いがある。


木の机の匂いでもない。


黒板の匂いでもない。


チョークの粉や消しゴムのカス、給食の残り香や体育終わりの汗、雨の日の靴下や古い本の匂い。


色々なものが混ざり合って、それでも何故か「学校の匂い」になる。


今まで考えたこともなかった。


けれど、今なら分かる。


人は景色より先に匂いで過去を思い出すのかもしれない。


教室を見渡す。


机が整然と並んでいた。


前を向いて、綺麗に。


それは昔から少し不思議だった。


人間は自由な生き物のはずなのに、学校では全てに位置が決められている。


席。


ロッカー。


靴箱。


名札。


出席番号。


全部に「正しい場所」がある。


だから逆に言えば、その場所から外れたものは異物になる。


私は小学生の頃、その「正しい場所」というものが苦手だった。


何故かは分からない。


ただ、最初から決められているものが好きではなかった。


そのくせ、自分からそこを出て行く勇気もなかった。


教室の中をゆっくり歩く。


顔のない生徒たちは動かない。


さっきと同じ姿勢のままだった。


それでも私は妙な違和感を覚えていた。


一人一人を見る。


前列に座っている男子。


寝癖が酷かった。


隣の女子は髪を二つに結んでいる。


その後ろの席の男子は眼鏡をかけていた。


顔はない。


目も鼻も口もない。


なのに、それぞれ違う人間に見える。


私は立ち止まった。


変な感覚だった。


知らない人たちのはずなのに、どこかで見た気がする。


知っている。


でも思い出せない。


そんな感じだった。


ガタ。


私は肩を震わせた。


音は教室の奥から聞こえた。


見る。


誰も動いていない。


でも、さっきと違う。


後ろの席の男子。


腕の位置が変わっていた。


いや、気のせいかもしれない。


そう思った。


だが、次の瞬間。


別の席。


女子生徒の首が、ほんの少しだけ傾いていた。


私は息を止めた。


いつ変わった。


見ていたはずなのに。


私が気付かなかっただけか。


急に寒気がした。


もし。


見ていない間だけ動いているのだとしたら。


もし少しずつ、こちらへ近付いてきているのだとしたら。


「……考えすぎだ」


そう呟く。


でも声が震えていた。


クロが歩き始めた。


教室の奥へ向かっている。


私は慌てて追いかけた。


クロは一番後ろの窓際で止まった。


そこだけ空席だった。


私は目を細めた。


誰も座っていない席。


他は全部埋まっているのに、そこだけ空白だった。


窓から春の光が差している。


机の表面には小さな傷があった。


私は指で触れた。


コンパスで削ったみたいな跡。


その瞬間だった。


記憶が浮かんだ。


授業中。


先生の話なんて聞いていない。


私は暇で、コンパスの針で机を少しずつ削っていた。


先生に見つからないように。


少しずつ。


少しずつ。


「あ……」


思わず声が漏れた。


知っていた。


この机を。


私はゆっくり机の横を見た。


名前を書く場所。


そこには文字があった。


『黒崎 悠』


私の名前だった。


私は動けなくなった。


何秒そうしていたか分からない。


さっき黒板には書いてあった。


『あなたの席はありません』


なのにここには私の席がある。


どちらが正しい。


いや。


そもそも何故そんなことを考えているんだ。


私はゆっくり椅子を引いた。


ギィ、と音が鳴る。


座ってはいけない気がした。


でも、座らなければいけない気もした。


クロが机の上に飛び乗る。


そしてじっと私を見た。


私は苦笑した。


「……分かったよ」


ゆっくり座る。


その瞬間だった。


教室の音が消えた。


風も。


時計の音も。


全部。


笑い声だけが聞こえた。


私は顔を上げた。


景色が少しだけ揺れている。


教室の色が薄くなっていく。


誰かが走っている。


誰かが笑っている。


誰かが名前を呼んでいる。


ぼやけていて見えない。


そして。


すぐ隣から声がした。


「お前、一人なの?」


私はゆっくり横を向いた。


そこにいた生徒には、顔がなかった。


ただ、その顔のない空白だけが、確かに私を見ていた。

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