帰宅の音
第二話 帰宅の音
クロは私の足元から離れると、居間の方へ歩き始めた。
尻尾を立て、数歩進んではこちらを振り返る。
昔からそうだった。
何かを見つけた時、遊んでほしい時、あるいは自分の行く先に私を連れて行きたい時、クロは必ずそうやって私を誘った。
私は小さく笑った。
「そういうところ、変わらないな」
クロは短く鳴いた。
その声が、あまりにも昔のままだったので、私は一瞬だけ胸が詰まった。
クロはもう死んでいる。
高校に上がる少し前、眠るようにいなくなった。
その日、私は泣かなかった。
悲しくなかったわけではない。
ただ、何を悲しめばいいのか分からなかった。
朝までそこにいたものが、急に「いないもの」になる。
それがあまりにも不自然で、感情が追いつかなかった。
人は、何かを失った瞬間よりも、失ったものがいた場所を見た時に本当の意味で喪失を理解するのだと思う。
クロが寝ていた座布団。
爪を研いで母親に怒られていた柱。
餌皿の置かれていた台所の隅。
それらが空っぽになった時、初めて私は思った。
ああ、クロはもういないのだ、と。
けれど今、クロはそこにいた。
私の記憶の中から抜け出してきたみたいに。
柔らかい毛並みも、細い尻尾も、歩く時に少しだけ揺れる背中も、何も変わっていなかった。
居間へ入る。
懐かしい匂いがした。
畳の匂い。
木の匂い。
少し古い家独特の、湿り気を含んだ匂い。
記憶というものは、目よりも鼻の方に深く残るのかもしれない。
景色は少しずつ曖昧になる。
人の顔も、声も、出来事の順番も、時間が経てばぼやけていく。
けれど匂いだけは、ある日突然、何の前触れもなく過去を現在へ引き戻す。
私はそこに立ったまま、しばらく何もできなかった。
この家は、確かに私の家だった。
私が子供だった頃の家。
何も知らなかった頃の家。
自分がこれからどこへ行くのかも、自分がどんな人間になるのかも、何一つ分かっていなかった頃の家。
テレビ台の上には、昔使っていたリモコンが置かれていた。
その隣には、母親がよく使っていた裁縫箱。
壁には、父親が買ってきた安っぽいカレンダー。
日付は三月二十七日で止まっていた。
私はその日付を見つめた。
何の日だったかは思い出せない。
けれど、胸の奥に小さな引っかかりが生まれた。
忘れている。
何かを忘れている。
そんな気がした。
クロは畳の上に座り、前足を舐めていた。
私は壁の時計を見た。
午前二時十一分。
秒針が動いている。
チク。
タク。
チク。
タク。
やけに大きく聞こえた。
私は何となく時計を見続けた。
一分ほど経ったと思う。
だが、時計の針は二時十一分のままだった。
秒針は確かに動いている。
一周している。
音も鳴っている。
なのに、長針は進まない。
同じ一分を、何度も何度も繰り返している。
「……夢だからか」
私はそう呟いた。
だが、その言葉は自分を納得させるためのものだった。
夢なら何でもありだ。
死んだはずのクロがいることも、小学生の頃の身体になっていることも、実家に戻っていることも、全部夢なら説明がつく。
しかし、説明がつくことと、安心できることは違う。
夢だとしても、これはあまりにもはっきりしすぎていた。
畳の感触。
空気の冷たさ。
クロの体温。
時計の音。
どれも曖昧ではない。
私は居間を歩いた。
一歩ごとに、足の裏へ畳の目が伝わってくる。
棚の上に、写真立てがあった。
家族写真だった。
父と母と、幼い私。
どこかの観光地で撮ったものだ。
私はその写真を手に取った。
しばらく見て、違和感に気付いた。
私が笑っていない。
昔の写真を見ると、大抵の私は不器用に笑っていた。
写真を撮られるのが得意ではなかったから、ぎこちない顔ではあったが、それでも笑っていた。
けれど、この写真の私は違った。
無表情だった。
いや、無表情というより、顔だけが薄くぼやけていた。
まるで写真の中で、私だけが存在を拒まれているみたいだった。
「……何だよ、これ」
その時、クロが低く鳴いた。
私は振り返る。
クロは居間の入口に立っていた。
その目は、玄関の方を向いている。
次の瞬間。
ガタン。
音がした。
私は写真立てを落としそうになった。
玄関だった。
何かが倒れたような音。
私は息を止めた。
時計の音がまた大きくなる。
チク。
タク。
チク。
タク。
玄関の方から、もう一度音がした。
ガチャ。
今度ははっきり分かった。
ドアノブの音だった。
誰かが外から回している。
私は動けなかった。
誰かが帰ってきた。
最初に浮かんだのはその考えだった。
だが、すぐにおかしいと気付く。
今は午前二時過ぎだ。
この家で、こんな時間に誰かが帰ってくることなどなかった。
それに、ここが昔の実家なら、帰ってくるのは父か母のはずだ。
でも私は分かっていた。
違う。
あれは、父でも母でもない。
もっと別の何かだ。
ガチャ。
また音がした。
クロは背中を丸めていた。
毛が逆立っている。
私は玄関の方へ一歩進んだ。
行きたくなかった。
けれど、見なければならない気がした。
この世界が何なのか。
なぜ私はここにいるのか。
それを知るためには、あの音の正体を確かめなければならない。
廊下に出る。
暗かった。
居間の明かりはついているはずなのに、廊下の奥には光が届いていない。
玄関までの距離が、記憶より長く感じられた。
いや、実際に長くなっているのかもしれない。
この家の廊下は、こんなに長かっただろうか。
壁には写真が掛かっていた。
さっきまではなかったはずの写真。
幼稚園の運動会。
小学校の入学式。
夏祭り。
遠足。
どれも見覚えがある。
けれど、どの写真の中でも、私は少しだけ離れた場所にいた。
皆の中心ではなく、端。
誰かと並んでいるのではなく、少し後ろ。
笑っているようで、目だけが笑っていない。
私は写真から目を逸らした。
ガチャ。
ドアノブが回る。
近い。
玄関のすぐ向こうに、何かがいる。
私はドアの前に立った。
手を伸ばせば鍵に触れられる距離。
けれど、開けてはいけない。
そう直感した。
向こう側にいるものは、私が迎え入れてはいけないものだ。
私はドアスコープを覗いた。
真っ黒だった。
外の景色がない。
街灯も、道路も、隣の家もない。
ただ黒い。
夜の暗さではない。
何も存在しない暗さだった。
その黒の奥で、何かが動いた。
白い点。
いや、目だった。
こちらを見ている。
瞬きもせずに。
私は息を呑んだ。
目は一つではなかった。
暗闇の中に、いくつも浮かんでいた。
高さも位置もばらばらで、子供の目も、大人の目もあるように見えた。
それらが一斉にこちらを見ていた。
そして、声がした。
『帰ってきたよ』
誰の声でもなかった。
それなのに、聞き覚えがあった。
『入れて』
私は後ずさった。
足が震えていた。
クロが私の前に出る。
小さな身体で、玄関と私の間に立った。
「クロ……?」
クロは唸っていた。
その姿を見た時、私はようやく理解した。
この夢は、私に優しくない。
懐かしい家も、死んだはずのクロも、子供の頃の自分の身体も。
それらは私を安心させるためにあるのではない。
私を、どこかへ連れて行くためにある。
ドアの向こうで、爪のようなものが木を引っかく音がした。
ぎい。
ぎい。
ぎい。
ゆっくりと。
焦らすように。
私は耳を塞ぎたくなった。
だが、身体は動かなかった。
その時、背後から音がした。
チク。
タク。
チク。
タク。
居間の時計の音。
いや、違う。
時計の音が近づいてきている。
振り返ると、廊下の奥に時計があった。
壁に掛かっていたはずの時計が、いつの間にか床に置かれている。
しかも、その針は二時十一分ではなかった。
十二時だった。
秒針だけが狂ったように回っている。
その周囲に、黒い染みが広がっていた。
染みは廊下の床を這い、ゆっくりこちらへ近づいてくる。
私は一歩下がる。
すると玄関の向こうの声が、少しだけ笑った。
『逃げるの?』
その声を聞いた瞬間、胸の奥が冷たくなった。
知っている。
私はこの声を知っている。
誰か一人の声ではない。
過去のいくつもの場面で聞こえた声。
直接言われた言葉ではない。
視線。
沈黙。
距離。
笑い声。
返事のない挨拶。
そういうものが混ざり合って、声になっている。
私は喉の奥が詰まった。
クロが突然走り出した。
玄関とは逆方向へ。
「待て、クロ!」
私は反射的に追いかけた。
廊下が伸びる。
写真が流れるように横を過ぎていく。
どの写真にも私がいる。
けれど、どの私もこちらを見ていない。
皆、何かから目を逸らしている。
クロは廊下の突き当たりで止まった。
そこには、あるはずのない扉があった。
古い木の扉。
小学校の教室の扉に似ていた。
引き戸ではない。
古びた、重そうな扉。
表面には白いチョークで文字が書かれていた。
『一時間目』
私は息を切らしながら立ち止まった。
「……一時間目?」
クロは扉の前で座った。
そして私を見る。
行け、ということなのだろう。
私は扉に手をかけた。
冷たい。
指先から、嫌な感覚が伝わってくる。
この先にあるものを、私は知っている気がした。
でも思い出せない。
思い出したくないのかもしれない。
背後で、玄関のドアが開く音がした。
ぎい、と。
ゆっくり。
私は振り返らなかった。
振り返ってはいけないと思った。
クロが小さく鳴いた。
私は扉を開けた。
その向こうには、教室があった。
懐かしい小学校の教室。
木の机。
黒板。
掲示物。
窓から差し込む朝の光。
けれど誰もいなかった。
いや。
違う。
席はすべて埋まっていた。
ただ、そこに座っているものたちには顔がなかった。
顔の部分だけが白く塗りつぶされている。
彼らは一斉にこちらを向いた。
黒板には、大きくこう書かれていた。
『あなたの席はありません』
その文字を見た瞬間、私はようやく思い出した。
これは夢ではない。
少なくとも、ただの夢ではない。
ここは、私が忘れたかった場所だ。
私の中に残り続けていた場所だ。
クロが私の隣に立つ。
教室の奥で、誰かが椅子を引いた。
ぎい、と音が鳴る。
そして、顔のない生徒たちが、声をそろえて言った。
『遅かったね』
いつの間にか私の姿は元に戻っていた。
私は何も答えられなかった。
ただ、胸の奥で、止まっていたはずの時計が動き出す音を聞いた。




