ヤドリキ
生に消極的であるという事は死に積極的である事と同義ではない。
私は今年で18になる。私は幼少期、いわゆる田舎に住んでいた。そんな生活に飽き飽きして実家を出て上京したが、通っている高校で馴染めず孤独の2年間を過ごした。強烈ないじめを受けたというわけではなかったがよく無視をされたり持ち物がなくなることがあった。
私が輪に入ろうとしても既に形成された輪は排他的に異物を除去するフィルターとなり私の侵入を拒んだ。だからと言ってはなんだが、クラスで居場所と呼べる場所はなかった。私は一人が好きな方だったが、私が身を置いていた環境は一人というより”独り”であった。上京し、心の拠り所がない私にとってそのような生活に身を置くことは世界に味方がいないような、というより世界が敵であるかのように感じられた。それ故か私は、いつだってどこかで死の影が私に襲いかかるのを期待していた。赤い信号機、踏切の音、学校の窓から見える海、日常のあらゆる情景で私は死の匂いを敏感に感じ取っていた。その匂いが私の鼻腔の深くに浸透していく時、私の身体は夢を見ているかのような心地になり、世界から音が消えるのだ。”楽になれる”という意識があるわけではなく、ただ思考が放棄されその匂いのもとに吸い寄せられるのだ。しかし、結局恐怖という感情がその誘惑を断ち切ってくる。私は死にたいわけではなく苦痛から解放されたいだけなのだ。だが、その苦痛はどこから来るものなのか分からない漠然としたものであり、環境や人間関係という私の意思決定可能な範囲を超えた超常的ものを相手にしないといけないため対処法を確立する術がないのだ。その結果、私の小さい脳みそが出せる限界の解決策をアウトプットすると”死”という概念が出力されてしまうのだ。とは言いつつも死というものを経験した事のない私がそれを解決策と定義して妄信的に縋り付くにしては死というものは情報が足りなすぎるのだ。死というもののイメージが今の生きているという状況と対照的なものとして教え込まれているだけであって、死が生の苦しさから救ってくれるものなのかは全く分からない。死んだら死んだあとの苦しさがあるのかもしれない。その未知さが恐怖心を産んでいるのだろう。人間はよくできている。
いずれ誰にでも訪れるものである”死”はよくドラマティックに表現される。例えば、戦地で勇敢に死んだ者の死は武勇伝として語られ、裏切られて死んだ者の死は悲劇的な結末として語られる。だが私は思うのだ。死というものはそんな大層なものなのか。多分、私が死んだら家族は泣いてくれるだろうし、クラスメイトも、まあ驚くぐらいはしてくれるかもしれない。しかし、数週間も経てば私の死は話題にも挙がらないだろう。自分の死や大切な人の死は人間にとって大きな意味を持つが、赤の他人の死なんて心底どうでもいいからだ。
第一話 クロのいる夜
十八歳の誕生日の前夜のことだった。
私はいつものようにベッドに入った。
暗い天井を見上げる。カーテンの隙間から街灯の薄い光が差し込み、天井にぼんやりとした四角形を作っている。窓の外からは、たまに車の走る音が聞こえてきた。
眠れなかった。
理由は分からない。
特別明日が楽しみだったわけでも、不安だったわけでもない。
ただ、眠れなかった。
十八歳。
子供でもなく、大人でもない年齢。
十七歳と十八歳の間に何か決定的な境界線が存在するわけでもないのに、人はそれを節目だと言う。
不思議なものだ。
時計を見る。
午前一時四十三分。
ベッドの上で寝返りを打つ。
もう何回目かも分からない。
私はため息を吐いて、布団を跳ね除けた。
「散歩でも行くか……」
誰に言うでもなく呟く。
こういう時、夜の街を歩くのは嫌いではなかった。
夜は好きだった。
昼間みたいに人間がこちらを見てこないからだ。
誰も私に期待しないし、誰も私を気にしない。
私はベッドから降りた。
そして、その瞬間だった。
違和感を覚えた。
何かがおかしい。
最初は何がおかしいのか分からなかった。
だが、数秒遅れて気付いた。
目線が低い。
ほんの数十センチ。
だが確かに低かった。
私は立ち止まった。
身体を見下ろす。
袖が長い。
パジャマの裾も余っている。
「あれ……?」
頭が追いつかない。
急いで部屋の隅にある鏡へ向かった。
そして、言葉を失った。
そこに映っていたのは、私だった。
いや、私ではある。
しかし今の私ではない。
十歳くらいだろうか。
小学生の頃の私だった。
丸みの残った顔。
短い手足。
少し癖のある髪。
忘れていたはずなのに、自分だと一瞬で分かった。
私は鏡に触れた。
冷たい。
夢なら、こういうところは曖昧なものじゃないのか。
頬をつねってみる。
普通に痛い。
「……何だこれ」
現実感がない。
だが不思議と恐怖はなかった。
むしろ妙に落ち着いていた。
夢の中だと理解しているからなのかもしれない。
私は部屋を出ることにした。
階段へ向かい、一段足を下ろした瞬間だった。
また違和感を覚えた。
今度ははっきりしていた。
軋む音。
木の匂い。
壁紙。
手すりの傷。
全部、見覚えがあった。
私はゆっくり顔を上げた。
「……え」
息が止まりそうになった。
実家だった。
私が生まれてから高校へ上がるまで住んでいた家だった。
古い木造の家。
少し急な階段。
壁の角にある傷。
幼い頃、おもちゃをぶつけて母親に怒られた場所。
全部、そのままだった。
私はゆっくり階段を降りた。
不思議だった。
懐かしい場所のはずなのに、何故か涙が出そうになった。
人は失ったものを美化する。
だから懐かしいのではない。
その時の自分自身まで一緒に思い出してしまうからだ。
何も知らなかった頃の自分。
何も失っていなかった頃の自分。
そういうものまで一緒に戻ってきてしまう。
一階へ降りる。
静かだった。
時計の針の音だけが聞こえている。
チク、タク。
チク、タク。
私は居間へ向かった。
すると。
何か黒いものが横切った。
私は足を止めた。
そして次の瞬間、目を見開いた。
「……クロ?」
黒猫だった。
私が高校へ上がる少し前に死んだ猫。
クロだった。
クロは立ち止まってこちらを見た。
それから、何事もなかったように近寄ってきた。
私の足元に身体を擦り付ける。
柔らかい毛の感触。
微かな温かさ。
信じられなかった。
私はしゃがみ込んだ。
恐る恐る頭を撫でる。
するとクロは昔と同じように目を細めて喉を鳴らした。
ゴロゴロ、と。
変わっていない。
何も。
何一つ。
私は笑った。
いつぶりか分からないくらい自然に。
「お前……いたのか」
クロは返事をする代わりに、私の膝に頭を押し付けた。
その瞬間だった。
玄関の方から。
ガタン、と音がした。
誰かが帰ってきたような音だった。
時計を見る。
午前二時十一分。
こんな時間に?
私はゆっくり立ち上がった。
クロは玄関の方を見ていた。
じっと。
瞬きもせずに。
なぜだろう。
さっきまで感じなかったものが、胸の奥に生まれた。
懐かしさではない。
もっと冷たい何か。
玄関の向こうで、ゆっくりと。
何かが笑った気がした。




