傘の中
第二十七話 傘の中
パラ……
パラ……
雨はまだ降っていた。
でも、私の周りだけ違った。
白い傘の内側だけだった。
そこだけ静かだった。
さっきまで耳が痛くなるくらいうるさかった踏切の音も。
黒い水が揺れる音も。
全部、少し遠かった。
私は白い傘を見ていた。
内側は普通だった。
何か文字があるわけでもない。
模様もない。
ただの白い傘だった。
なのに、おかしかった。
安心した。
どうしてか分からない。
初めてこの場所へ来た時からずっと、身体のどこかに力が入っていた。
でも今は違った。
少しだけ息がしやすかった。
『……返せ』
黒い傘だった。
私は顔を上げる。
さっきより遠くなっていた。
いや。
違った。
離れていたんじゃない。
近付けなくなっていた。
黒い水が私の周り数メートル手前で止まっていた。
壁みたいだった。
『返せ』
『それは違う』
『お前のじゃない』
私は何も言わなかった。
代わりに、ゆっくり前へ歩いた。
黒い水の上だった。
でも沈まない。
黒い傘がまた少し揺れる。
『来るな』
私は止まらない。
バシャッ!!
今度は前だけじゃなかった。
右。
左。
後ろ。
上。
黒い腕が一斉に出てくる。
教室だった。
昼休みの教室。
机の下から腕が伸びる。
夜の部屋。
ベッドの隙間から腕が出る。
電車の窓。
映っていた私の顔が崩れ、その中から腕が這い出る。
何十本も。
何百本も。
全部こちらへ向かっていた。
でも私は止まらなかった。
白い傘を少し上げる。
腕が触れた。
ジュッ。
一本消える。
また一本。
また一本。
黒い腕は触れた瞬間に崩れていった。
黒い雨になって落ちる。
私は歩く。
一歩。
また一歩。
黒い傘が後ろへ下がる。
さっきまでの恐怖はもう無かった。
『やめろ』
『思い出したら終わる』
『苦しくなる』
『また失う』
私は止まった。
黒い傘を見た。
しばらく何も言わなかった。
そして、小さく呟いた。
「……もう知ってる」
黒い傘が止まる。
「苦しいのは知ってる」
「失うのも知ってる」
喉が少し震えた。
私は白い傘を強く握った。
「……独りの方が楽な時はあった」
黒い傘は動かない。
「誰にも会いたくない日もあった」
「全部嫌になる日もあった」
少し間が空く。
私は下を見る。
手の中のクロのキーホルダーが小さく揺れていた。
チリン。
そして顔を上げる。
「でも」
息を吐く。
「俺は、ずっと独りでいたかったわけじゃない」
静かだった。
「本当は」
「誰かにいてほしかった」
「話したかった」
「怖かっただけだった」
黒い傘が揺れる。
「だからもう」
私は白い傘を持ち上げる。
「お前の中には戻らない」
ピシ。
黒い傘に、大きなヒビが入った。
第二十七話 傘の中 終




