雨が止む音
第二十五話 雨が止む音
ザー……
雨音だけが聞こえていた。
私は前へ倒れたまま動かなかった。
腕を伸ばした姿勢のまま、呼吸だけが少し乱れている。
指先の先。
白い傘が落ちていた。
あと少し。
本当にあと少し手を伸ばせば届く距離だった。
でも、動けなかった。
その向こうに誰かがいたからだった。
人影だった。
雨の向こう側に立っている。
長い髪。
細い肩。
でも顔は見えなかった。
輪郭が曖昧だった。
雨でぼやけているわけじゃない。
もっと変だった。
景色の中へ少しずつ溶けているみたいだった。
私はゆっくり身体を起こした。
目を離せなかった。
頭の奥が変だった。
私は一歩前へ出た。
人影は動かない。
もう一歩。
まだ動かない。
そして、あと一歩踏み出そうとした瞬間だった。
ザッ——
視界が乱れた。
ノイズだった。
一瞬だけ。
テレビの砂嵐みたいなものが目の前を走った。
思わず目を閉じる。
数秒してから、ゆっくり開く。
誰もいなかった。
私は止まった。
雨だけだった。
さっきまで誰かがいた場所には、何もない。
私はしばらく動かなかった。
何だったんだ。
見間違いじゃない。
そんなはずない。
確かめようとした瞬間だった。
『……見るな』
後ろから声がした。
私は振り返る。
黒い傘だった。
まだそこにいた。
でも今までと違った。
少し揺れていた。
初めてだった。
どこか焦っているみたいだった。
『行くな』
『見るな』
『思い出すな』
同じ言葉だった。
でも何か違った。
今までみたいに引き戻そうとしている感じじゃなかった。
怖がっていた。
私はゆっくり立ち上がる。
そして黒い傘を見た。
「……何でだよ」
黒い傘は答えない。
私は足元の白い傘を見る。
そして初めて、それを拾った。
冷たかった。
でも、握った瞬間だった。
ザー……
雨の音が少しだけ弱くなった。
黒い傘が大きく揺れた。
第二十五話 雨が止む音 終




