雨の境界
第二十二話 雨の境界
小さく。
本当に小さくだった。
黒い傘の周りの暗闇へ、細い白い線が走っていた。
ヒビだった。
ピシ。
乾いた音がする。
私は目を細めた。
気のせいかと思った。
でも違った。
線は消えない。
むしろ少しずつ広がっていた。
黒い傘は動かない。
静かだった。
今までなら何か言っていたはずだった。
『独りの方が楽だ』
『思い出さなければ苦しくない』
でも今は何も言わない。
私はその静けさが妙に嫌だった。
チリン。
手の中でクロのキーホルダーが揺れた。
その瞬間だった。
バキッ!!
大きな音が響いた。
私は反射的に足元を見る。
黒い水だった。
今まで静かだった水面が、急に大きく波打っていた。
まるで下で何かが暴れているみたいだった。
次の瞬間。
ザーッ――
水面へ景色が映った。
高校の教室だった。
昼休みだった。
窓際に座っている私がいた。
一人だった。
何人かが笑っていた。
でも誰も私を見ていなかった。
私はその景色を見て止まった。
知っていた。
何度も見た景色だった。
その時だった。
ミシ。
教室の床が動いた。
私は眉をひそめた。
床の継ぎ目だった。
黒い隙間が開いている。
一本、腕が出てきた。
黒かった。
水みたいに揺れている。
でも腕だった。
机の下を這う。
また一本。
また一本。
今度は別の場所だった。
夜の部屋だった。
暗い天井。
ベッド。
机。
スマホの光。
ベッドの下から腕が出る。
机の下から。
扉の隙間から。
カーテンの向こうから。
次々と。
また景色が変わる。
電車だった。
窓の隙間。
床。
座席の下。
腕。
腕。
腕。
私は後ろへ下がった。
でも遅かった。
バシャッ!!
景色が砕けた。
教室から伸びていた腕。
部屋から伸びていた腕。
電車から伸びていた腕。
全部が黒い水を突き破って出てきた。
私の足を掴む。
服を掴む。
肩を掴む。
冷たかった。
水のはずなのに重かった。
『戻れ』
黒い傘の声だった。
でも今までと少し違った。
静かじゃなかった。
少しだけ乱れていた。
『見るな』
『思い出すな』
『戻れ』
私は腕を振り払う。
一本外れる。
でもすぐ別の腕が掴む。
引っ張られる。
身体が少しずつ沈んでいく。
その時だった。
チリン。
手の中で、また音がした。
私は止まった。
クロのキーホルダーだった。
青い猫が、薄く光っていた。
最初は気のせいかと思った。
でも違った。
握った指の隙間から、小さな光が漏れていた。
そして、その光へ黒い腕が触れた瞬間だった。
ジュッ。
雨へ墨を落としたみたいに、黒い腕が崩れた。
黒い傘が初めて揺れた。
大きく。
はっきりと。
私はキーホルダーを見る。
そして、ゆっくり黒い傘へ顔を上げた。
第二十二話 雨の境界 終




