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傘を差すには

第二十一話 傘を差すには


チリン。


小さな音だった。


暗闇の中では、その音だけが妙にはっきりしていた。


私は足元を見た。


青い猫のキーホルダー。


クロだった。


踏切の前へ落ちていた、小さなキーホルダー。


私はしばらく動かなかった。


何故か分からない。


でも、ただ拾うだけのことが妙に怖かった。


触ったら終わる気がした。


いや、違う。


触ったら始まってしまう気がした。


黒い傘は黙っていた。


何も言わない。


静かだった。


私はゆっくり屈む。


そしてキーホルダーを拾い上げた。


冷たかった。


その瞬間だった。


ザー……


雨音が聞こえた。


暗闇のどこかじゃない。


頭の奥だった。


景色じゃなかった。


記憶でもなかった。


もっと曖昧なものだった。


笑い声。


歩く音。


傘へ落ちる雨粒の音。


『ねぇ』


声だった。


私は止まった。


『また考えごとしてる』


女の子の声だった。


頭の中へ流れ込んできた。


でも顔は見えない。


姿も見えない。


ただ声だけだった。


『一人でいるの好きだよね』


少し笑った声だった。


『でもさ』


少しだけ間が空く。


『独りは駄目だよ』


私は何も言えなかった。


黒い傘が少し揺れる。


『……思い出すな』


黒い傘が言った。


『思い出してどうする』


『思い出したところで何も変わらない』


『苦しくなるだけだ』


『お前は知ってるだろ』


私は黙っていた。


たぶん前の私なら、何も言えなかった。


全部正しいと思ったかもしれない。


でも、今は少し違った。


私はキーホルダーを見た。


クロだった。


事故の日。


私は必死だった。


必死に助けようとしていた。


必死に手を伸ばしていた。


なのに今まで、私はずっと違うことを考えていた。


「……何で死んだんだ」


「何で助けられなかったんだ」


「俺のせいだったのか」


ずっとそこばかりだった。


でも違った。


私はゆっくり顔を上げる。


「俺……」


言葉が止まる。


上手く出てこない。


喉に引っかかる。


「俺、一回も考えてなかった」


黒い傘が動かない。


「……あいつが何を考えてたのか」


静かだった。


何も聞こえなかった。


私は初めて思った。


事故のことじゃなかった。


後悔のことでもなかった。


もっと前のことだった。


あいつは何を思って笑っていたんだろう。


何を考えて、一緒に帰っていたんだろう。


私は何も知らなかった。


いや。


知ろうとしていなかったのかもしれない。


黒い傘の周りが少し揺れた。


小さく。


本当に小さく。


ヒビが入るみたいに。


第二十一話 傘を差すには 終

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