人は独り
第十九話 人は独り
カン……
カン……
カン……
長髪の子が走っていた。
白い傘はもう手から離れていた。
雨の中で転がり、水たまりの上をゆっくり回っている。
小学生の私は遮断機の前で腕を伸ばしていた。
あと少し。
本当にあと少しだった。
長髪の子も手を伸ばす。
指先が近付く。
数センチ。
一センチ。
そして、触れた。
本当に、一瞬だった。
間に合った。
そう思った。
でも次の瞬間だった。
二人の身体が少しだけぶつかった。
ほんの僅かだった。
雨で濡れた靴底が、地面の上で滑る。
長髪の子の身体が傾いた。
「あ……」
その小さな声だけが聞こえた。
私は動けなかった。
雨も。
踏切も。
赤い光も。
全部が急に遠くなった。
景色がゆっくり歪んでいく。
水に墨を落としたみたいに、世界の端から黒く滲んでいく。
踏切が消えた。
雨が消えた。
長髪の子も。
小学生の私も。
何もかも。
残ったのは暗闇だけだった。
いや。
違った。
暗闇の中に、一つだけ立っていた。
黒い傘だった。
最初に見た時と同じだった。
静かに立っている。
でも今は違った。
私は分かった。
こいつは最初からずっと、ここにいたんじゃない。
ずっと私を見ていたんだ。
『見たくないよね』
声がした。
初めてだった。
男か女かも分からない声だった。
近くで聞こえるのに、遠かった。
『もうやめよう』
黒い傘が少し揺れる。
『思い出したら苦しいだけだ』
『独りの方が楽だったでしょ?』
私は黙っていた。
『思い出さなければ、何も失わない』
『何も痛くならない』
『何も怖くない』
暗闇の足元に、黒い水が広がっていく。
ゆっくり。
静かに。
そしてその水の中に映った。
高校の教室。
一人で座っていた私。
誰もいない昼休み。
窓の外。
夜の部屋。
全部、私だった。
『ほら』
『ずっと一人だったじゃないか』
私は黒い傘を見ていた。
しばらく何も言わなかった。
でも、ふと思った。
おかしかった。
もし本当にずっと一人なら。
どうして私は今、あの子のことを思い出して苦しくなっているんだ。
私はゆっくり顔を上げた。
「……違う」
黒い傘が止まった。
「ずっと一人なら」
喉が少し震えた。
「忘れることなんて、ないだろ」
黒い傘の周りの暗闇が、小さく揺れた。
黒い傘が回るのをやめた。
初めてだった。
こいつが、動きを止めたのは。
第十九話 人は独り




