思い出してはいけないもの
第十三話 思い出してはいけないもの
「……あれ、知ってる」
私は小学生の私を見た。
聞き間違いかと思った。
でも違った。
確かに言った。
知ってる、と。
長髪の子も少し驚いた顔をしていた。
「知ってるって……誰?」
小学生の私は答えなかった。
黒い傘を見たまま動かない。
顔色が悪かった。
私はその顔を見ていて、妙な違和感を覚えた。
知っていた。
その表情を知っていた。
鏡で見たことがある。
何かを思い出しかけて、でも思い出したくなくて、無理やり考えるのをやめる時の顔だった。
小学生の私は一歩後ろへ下がった。
長髪の子が不思議そうに見る。
「どうしたの?」
返事はなかった。
もう一歩下がる。
水たまりを踏む。
チャプ、と小さく音がした。
その音だけが妙にはっきり聞こえた。
さっきまで全部消えていたはずなのに。
私は眉をひそめた。
見ると、雨がまた動き始めていた。
空中で止まっていた雨粒が、少しずつ落ちていく。
一粒。
また一粒。
まるで止まっていた時計が、ゆっくり動き始めるみたいだった。
クロの唸り声も戻ってきた。
世界が少しずつ元へ戻っていく。
でも、黒い傘だけは変わらなかった。
そこにあった。
何もしていない。
ただ、立っていた。
その時だった。
長髪の子が突然歩き出した。
道路の方へ。
私は思わず声を上げた。
「待て!」
もちろん届かなかった。
私の声はこの世界の誰にも聞こえない。
長髪の子は黒い傘へ近付いていく。
小学生の私は慌てて腕を掴んだ。
「行くな」
初めてだった。
少し強い声だった。
長髪の子が振り返る。
「え?」
「行くな」
「……何で?」
「分かんないけど」
小学生の私は俯いた。
「……何か嫌だ」
長髪の子はしばらく黙っていた。
それから少し笑った。
「何それ」
からかうみたいな笑いじゃなかった。
困ったみたいな笑いだった。
「変なの」
そう言って、少し考える。
それから白い傘を持ち直した。
「じゃあ、行かない」
小学生の私は顔を上げた。
少しだけ安心した顔をしていた。
その瞬間だった。
黒い傘が落ちた。
地面へ。
何の前触れもなく。
バサッ、と。
まるで急に持っていた人の手が消えたみたいに。
私は息を止めた。
道路の真ん中に黒い傘が転がっている。
その下には何もない。
誰もいない。
ただ黒い傘だけだった。
静かだった。
そして。
小学生の私が、震える声で言った。
「……違う」
長髪の子が見る。
「え?」
小学生の私は黒い傘を見たまま、ゆっくり首を振った。
「違う」
顔が青かった。
「知ってるんじゃない」
雨が急に強くなった。
ザーッ、と音が大きくなる。
そして小学生の私は、小さく言った。
「思い出したくないんだ」
その言葉を聞いた瞬間。
私の頭が、ズキッと痛んだ。
第十三話 思い出してはいけないもの 終




