黒い傘
第十二話 黒い傘
雨は降り続いていた。
ザー……
ザー……
道路の向こう側。
人影は、黒い傘を差し、まだそこに立っていた。
動いていない。
ただ、雨の中に立っている。
小学生の私と長髪の子は、まだ気付いていないようだった。
二人は白い傘の下で並んで歩いている。
長髪の子が何かを言う。
小学生の私は少しだけ顔を逸らす。
その様子は、さっきまでと変わらなかった。
変わったのは、クロだけだった。
クロは足元で低く唸っている。
その目は、道路の向こうの黒い傘から一度も離れない。
私はもう一度、人影を見た。
黒い傘が顔を隠している。
だから表情は分からない。
けれど、よく見ると妙だった。
傘の下にあるはずの身体が見えない。
肩もない。
腕もない。
足もない。
人が傘を差しているなら、どこかしら身体が見えるはずだった。
でも、そこには何もなかった。
まるで黒い傘だけが、道路の向こうに立っているみたいだった。
「……何だ、あれ」
声に出した瞬間だった。
長髪の子が足を止めた。
小学生の私もつられて止まる。
「どうしたの?」
小学生の私が聞いた。
長髪の子は返事をしなかった。
ただ、道路の向こうを見ていた。
黒い傘を。
「……誰?」
その声は小さかった。
雨音に消えそうなほどだった。
その時、黒い傘が動いた。
近付いてきたわけではない。
開いたわけでもない。
ただ、ゆっくり回った。
風は吹いていない。
雨も真っ直ぐ降っている。
なのに、黒い傘だけが少しずつ向きを変えていた。
最初に、小学生の私へ。
次に、長髪の子へ。
それから、クロへ。
最後に。
私の方で止まった。
その瞬間、音が消えた。
雨音も。
子供たちの声も。
足音も。
全部だった。
校門の前を歩いていた子供たちは、動きを止めていた。
走っていた子は片足を上げたまま。
笑っていた子は口を開けたまま。
傘を振り回していた子は、その姿勢のまま固まっている。
時間が止まったみたいだった。
けれど、完全には止まっていない。
髪はわずかに揺れている。
雨粒も空中に浮かんでいる。
私は黒い傘を見た。
傘の下の空間だけが、じわじわ歪んでいた。
熱い道路の上の景色みたいに、輪郭が揺れている。
そこに何かがいる。
でも見えない。
見えそうになるたびに形が崩れる。
人のようで、人ではない。
その時、小学生の私が小さく息を漏らした。
「……あ」
私は振り返った。
小学生の私は黒い傘を見ていた。
顔から血の気が引いている。
長髪の子が心配そうに覗き込む。
「どうしたの?」
小学生の私は震える指で、黒い傘を指差した。
そして、小さく言った。
「……あれ、知ってる」
雨は止んでいた。
いつの間にか。
第十二話 黒い傘 終




