バカだったあの頃
昔から好きな色は赤だったが、その頃にはもう意味が違っていた。
喧嘩の味を知ってから〝彼女〟と出会うまでの約三ヶ月間、拳を血で染めなかった日は数えるほどしかない。たとえ初対面でも同族ならば顔を合わせるなり言葉ではなくまず拳。殴るからには相手の血を見なければ気が済まず、決着がついてもやり続けた。何が楽しいわけでもない。ただひたすらに荒れていた。
もともとそういう人間だったのだろう。足し算を習う前から通っていた空手道場にいた頃、自分より強い男が許せないと既に気づいていた。だがよほどの天才でもなければ、小学生も高学年になると言い訳のきかない敗北を必ず味わう。相手は同じ学校の同級生で、あろうことか素人で、力士みたいな体格だった。初めての挫折。上には上がいる。どうあがいても勝てないやつが。そう気づいたその瞬間、武藤健は鬼になった。
拳を握ればそこはもう戦場。そんな感覚で生きてきた。もちろん相手は選んだ。女と子供と老人、それから「パンピー」には手を出さない。少なくとも向こうから挑んで来ない限り。それでもこの街では相手に事欠かない。そして暴力が許されている。結果を考える必要もない。死なせなければほぼ問題なし。当たり前の日常だから補導もされない。政治も警察も俺の心も腐っていて世も末だな、と、感謝しながら思っていた。
少しだけ違う景色が見えたのは、夏休みを目前に控えた七月の夕刻だ。
その日も健は三人の悪友を従えて授業をサボり、夕刻の街を流していた。誰が一番「サイフ」を狩れるか、なんて競争もこれの醍醐味。今にして思えば後悔と負い目しかないが、当時から金欠は切実な問題だった。特に夏休みの間、中学生が娯楽なしに過ごせるわけがない。だが自分も仲間もみんな貧乏。カツアゲが必要だった。
「なあ、なんかねェかよ。楽して金持ちンなる方法」健は歩道橋を渡りながら、振り返りもせず、後ろを歩く三人に声をかける。
「ねえよあほ」チョコレートバーをかじりつつ素っ気なく答えた肥満体型の少年は、深山文。
彼の隣には、あばた面で痩せぎすの久保田正吉、小柄で老け顔の都出信康が並んでいる。三人とも健の幼なじみ。同じ中学に通う仲。そしてかけがえのない戦友だ。
「バイトでもする?」本日の戦利品を数える信康は声は気怠げ。
「マジでいってんの、それ」
「正気じゃないね」
文と正吉は不満たらたらだ。
「だってさあ、もういろいろとキビシイじゃんよ。《青勇会》にも目ェつけられてんだわ」
「あいつらだけはガチにやばい」
「はあ? あんな雑魚ども、俺がノしてやんよ」
「けど俺らやり過ぎちゃったよね!」
「あと〝カゲ〟もやべー」
「〝カゲ〟ってめっちゃ稼いでんだろ。入れねぇかな、俺たち」
「な。やっぱワルく賢く稼ぐやつが正義だよな」
「悪く賢く、強くな」
「だからバイトは却下で」
「それな。バイトは死ね」
「じゃあどーするよ。地下闘技場でもいく?」
沈黙。
誰もそんな度胸はなかった。いくらそれなりに恐れられていたグループとはいえ、所詮は中学一年生。裏社会に飛び込んでいく勇気なんて、振り絞っても一滴とて出てこない。
「ハッチーが詳しかったのにね、そーゆーコト」空気を変えようとした正吉の発言は、当人の意に反してますます、一同の面持ちを暗くした。文と信康が先頭を行く健の背中に、警戒の眼差しを注ぐ。やや遅れて失言に気づいた正吉も、おずおずと二人に倣った。しかしハッチーこと鉢嶺千斗の離反を招いた健は、やはり振り返りもせずに、ただ「ああ」とだけ。
四人は国道を外れ、河川敷を跨ぐ鉄橋へ。ここを抜ければすぐ団地。その辺には所属のないワルもいる。そいつらが本日最後のターゲット。パチンコ帰りのオヤジを狙えばそれなりに当たる。どうせ相手もVDやネグレクトの常習犯。良心は咎めない。
やがて健の目は、すぐ脇の夕焼けに染まる川岸の方へと吸い寄せられた。怒声が聞こえた気がしたのだ。見下ろせば果たして、十数人の男が集まっていた。他校の制服を着ているが、明らかにカタギではない。全員が殺伐とした雰囲気を醸している。それだけならここ百色において、ごくありふれた光景だった。柄の悪い男たちに囲まれているのが、女でさえなかったら。
「なあおいっ、あれ……」文が河川敷を指さし、立ち止まった。
「は? リンチ? 女を?」
「やべえって……」
三人は俄に浮き足立つ。健も仲間たちと同様に足を止め、目を凝らして現場を見た。やっぱり女だ。ここからは後ろ姿しか見えないが、長い黒髪を高い位置で一本に束ね、半袖の白いワイシャツ、ぎりぎりまで丈をつめた紺のプリーツスカートという出で立ちからして、間違いない。しかもその女、遠目にもわかるすごい体をしていた。胴の括れ、尻の膨らみ、そして筋肉の形が浮き出た太く長い脚。スカートの下からローファーの上まで、ぜんぶ肌色。
『やばっ……』健は高欄から身を乗り出し、息を荒くした。これからはじまるであろう喧嘩を予想して、ではない。女の後ろ姿に、興奮が止まらなかったのだ。
「あれ、《儺学園》の制服か」信康は女から目を離さない。
「じゃ、《青勇会》?」正吉も興味津々。
「たぶん」
「じゃ、強いのか?」
「たぶん」
「けど女だぜ?」やや苛立ったように、健が言った。
「おまえ、しらんの?」文は目を丸くする。
「なにを?」
「《青勇会》で最強のやつは女だ。柊紅羽だ」
どくん、と胸が高鳴った。
『まさかあれが、柊紅羽? 喧嘩最強の、伝説の女?』
そのとき、四人の声が聞こえたのか、女が振り返った。
目が合った、と健は感じる。
いかにも気が強そうな、切れ長の目と滅紫の瞳。男勝りな雰囲気を醸す、くっきりと真っ直ぐな眉。きゅっと真一文字に結ばれた、艶やかな唇。健が知っている如何なる女とも違う、強く凜々しく逞しく、それでいて気品が漂う綺麗な顔。
また、痛いほどに胸が高鳴った。
しかし、女がよそ見をした隙に、男たちの中から一人が拳を振り上げ、襲いかかった。
「危ない!」腹の底から健は叫ぶ。
すると女は焦るでもなく向き直り、紙一重で攻撃を躱すと、不意打ちを試みたスキンヘッドの男の腰に、素早く回し蹴り。予備動作を感じさせない、すさまじい一撃。
「かェっ……!」男は微弱な悲鳴を漏らして転倒。のたうち回る彼を尻目に、残りの男たちが全員、一斉に女へ向かってゆく。多勢に無勢。しかも男対女。普通に考えれば敵うわけがない。なのに、女は一歩も引かなかった。幾度か腕、腰、腹、顔に打撃を受けながら、痛がる声すらない。四人の少年は呆気にとられ、誰もが言葉を失っていた。見ているしかなかった。スカートを翻して黒いスパッツを垣間見せる女が、燃えさかる炎のような足技で、次々に男たちを倒してゆく姿を。
数分後、男たちは女の周囲に這い蹲っていた。女は汗をかき、軽く息を乱し、顔や腕、太ももに少し痣を作りながらも、表情や動作にはまだまだ余裕を感じさせる。
「やっぱり、あれが柊紅羽だよ……」文が恍惚として呟いた。「かっけぇ……」
「足技えぐいって! あれどうやってんだろ?」正吉も興奮を隠せない。
「おれ惚れそうだわ」信康は高欄に頭を打ち付けて悶える。
『は? 何こいつら。あんな《青勇会》嫌ってたのに、こんだけのことでてのひら返しかよ……』健は拳を握りしめ、友人らを睨む。しかし言葉が出てこない。他ならぬ自分も、すっかり紅羽に魅了されていたからだ。
紅羽は颯爽と河川敷から離れ、何事もなかったかのように坂を上ってゆく。
「ああ、行っちゃうよ! 誰か話しかけてこいって」
「無理言うな。俺ら《青勇会》に目ェつけられてんだぞ」
「もういいじゃん。カツアゲとかやめてさあ、やっぱマジメにバイトしたほうがいいんだよ。素直にそういって頭下げれば、柊さんなら許してくれんじゃね?」
「馬鹿かよ、てめぇら」健は高欄を蹴り、声を荒げた。三人の耳目が彼に集まる。「寝ぼけてんのか? ああ? いまさら戻れるわきゃァねーだろうが! なにが正義の《青勇会》だよ。クソが!」
なぜそんなにまで苛立ったのか、今ならわかる。認めたくなかったのだ。女に、正義の味方に、圧倒されている自分を。彼女から目が離せなくなかった自分を。
「……行くぞ」
怖じ気づいた仲間たちに背を向けて、健は一人、歩き出す。
久しぶりに心がかき乱されていた。こんな激しい感情は、初めて負けたあのとき以来。しかし、それの名前はまだ知らない。初めて味わう感情にただ、戸惑うばかり。
彼はふと、空を見上げた。巨大な入道雲から、微かな雷の音が降りてくる。雨が近い。日没が迫っていた。




